樺沢のシカゴ日記
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ブルース・フェスティバル
余裕のある場所とり


「ブールス・フェスティバルに行ってみる 」

「ゴスペル・フェスティバル」の翌週は、「ブールス・フェスティバル」に行ってみた。会場は前回と全く同じ、グラントパークである。
今度は、場所がどこかもわかっているし、要領が分かっている。イスは持ってきていないが、敷物は持参した。
 すごいに賑わいだ。たぶん、「ゴスペル・フェスティバル」の3倍くらいの人が出ている。ある本には、これがシカゴ最大のイベントであるとも書かれていた。2-3万人くらいはいるのだろうか? 12〜21時までぶっ通しでやっていて、途中で帰る人も多いから、一日のべ5万人くらいの人出はありそうだ。私の全くの概算だが・・・。
 しかし、こんなに混んでいても、道が通れなくなるということはない。アメリカという国は不思議だ。一箇所に集まるのが嫌いなのだろう。小ステージが二つあって、そちらはそんな混んでいない。メインステージのシンガーと比べると知名度が落ちるせいか・・・。それでも、小ステージの方が、ステージのすぐそばまで寄れるので、ライブ感がある。
 フードの店や出店の数も、先週のゴスペルフェスの3倍くらいだ。しかし、今日は黒人の客が妙に少ない。全体の2割以下、1割くらいかもしれない。シカゴ人口の約4割が黒人であることを考えると、非常に少ない。今日は、いたるところ、白人だらけ。
 ブルースといえば、やはり黒人のイメージが強かったので意外である。実際に、参加しているシンガーの2/3以上は黒人である。しかし、聞き手は白人。黒人は先週のゴスペルフェスで疲れているので、今週は休んでいるのか・・・。
 当然ながら、ジーザス・ハレルーヤおばさんの姿もなく、何か寂しい。そう、アメリカのコンサートというのは、日本の以上に盛り上がるのかと思ったが、意外とそうでもない。屋外コンサートのせいか。あるいは、無料のため、本来のブルースファン以外の人も多く来ているせいか・・・。
  全員が必ずしも音楽を聴きに来ているという風ではないのだ。音楽を楽しみに来ている、あるいはフェスティバルを楽しみに来ている雰囲気である。芝生で聞いているほとんどの人は、敷物、あるいはキャンプで使うチェアを持参し、長期戦の構えだ。当然、ドリンク類は売っているのだが、クーラー持参で飲み物、食べ物を家から持ってきている人も多い。のんび〜りくつろぎながら、音楽を楽しむ。あるいは、ブルースを肴にビールを飲みフライドポテトヲ食べる、そんな感じだ。
 私にとっては、格好の人物観察の場。羽目をはずした生のアメリカ人の行動を観察できる絶好の機会だ。
 踊りだす人、歌いだす人。人それぞれ。
 トランプしている人もいる。ナポレオンか大富豪なら私も入れて欲しい。
 一人でソリティア(一人トランプ)をしている人もいる。これはちょっと寂しい。
 ラミーキューブ(グループ・ゲーム)を持ち込んでいる人もいる。もちろん、演奏中もやっている。ここまで来ると「おい、音楽聴けよ」と言いたくなる。
 しかし、人に迷惑をかけなければ、何をやっても結構。ただ、迷惑行為はやめてくれ。
 この人ごみの中でバーベキューはないだろう。黙々と煙を上げながら、ソーセージを焼いている。良いにおいだ。俺にも分けてくれ。いやいや、周りに人がたくさんいるので、止めてくれ。さすがに迷惑だ。街中の普通の公園だ。常識で考えても、火気は厳禁なはず。でも、誰も注意しない。
 フリスビーやっている奴もいる。公園だからフリスビーやってもよさそうだが、何万人も集まっている会場で、そんなことするか? 「GRAY」の10万人コンサートの会場で、フリスビーやっている奴がいるか? それも演奏中に。当然、いないだろう。
 この何万人も集まっている会場でも、ポカリと空いているスペースが時々ある。そんなスペースを見つけて、うまいことフリスビーを始める。その男が、フリスビーを落とした。フリスビーが泥だらけだ。そのスペースが空いていたのは、前日の雨でぬかるみになっていたからなのだ。あわてて、泥だけのフリスビーの泥をふいている。いい気味だ。神は我々とともにある。ジーザス、ハレルーヤ。神罰がくだった。それでも、こりずにまだフリスビーを続けている。
 タバコを吸っている人が多いのには驚いた。アメリカ人がタバコをすっている姿というのは、ほとんどみかけない。パブリックスペースのほとんどは禁煙であるからだ。しかし、かなりたくさんの人が青空の下で喫煙していた。すぐ前の人は、気持ちよさそうに葉巻を吸っていた。みんな我慢しているのだ、普段は。

 この会場には、何万にもの人が来ているとは思うのだが、妙にスペースがゆるい。隣の人たちとの距離がゆったりしているのだ。アメリカ人のパーソナルスペースは、日本人と比べて広いようだ。
 パーソナルスペースとは、コミュニケーションをとる相手との物理的な距離のことで、一種の縄張り意識である。
 例えば、嫌いな人にある一定の距離以上に近寄られると非常に不快感を感じる。逆に、親しい人、自分の好きな人には近くで話しても、不快な感じは生じない。コミュニケーションする相手によって変化するものだが、全く見ず知らずの人とは、ある程度距離とりたいものだ。
 例えば、ガラガラの地下鉄の中で、座席間の一番左端に一人だけ座っていたとする。あなたはどこに座るのか?
 ほとんどの人は、一番右端か、既に座っている人と2メートルくらい離れた右側に座るだろう。ここでいきなり、その人の50センチ横に座ったとすると、明らかに変な感じだ。「何、この人?」と、非常な警戒感を持たれるだろう。痴漢と誤解される可能性すらありうる。これは、パーソナルスペースを障害しているから、不快感を感じるのだ。
 このフェスティバル会場での場所取りの具合がおもしろい。無料の芝生席。そこに、敷物を引いたり、イスを置いて自分のスペースを確保していく。花見や運動会での場所取りみたいなものだ。
 日本の運動会だと、隙間なくビッシリと陣取りをする。それを特に不快にも感じない。前の方に1メートルほどスペースがあれば、すぐに誰かが入り込んでくるはずだ。
 しかし、このフェスティバル会場では、みな広々ととスペースを確保している。隣との距離が1.5メートルくらい開いていても、意外とその中に割り込もうとはしない。前の方の、その場所に割り込むくらいなら、後ろの方で見た方が良いということで、後ろの方に陣取る人も多い。芝生席の一番前と後ろでは、50メートル以上は離れている。日本人であれば、そんな後ろで見るよりは、狭くてもいいから、適当な場所に割り込んで、できるだけ前の方で見るに違いない。そうしないのが、パーソナルスペースの違いからだろう。
 パーソナルスペースは、日本人の中でもかなり差がある。例えば、北海道人と東京人。東京に行って驚くのは、居酒屋や喫茶店に行った時の、隣の席との距離の近さである。50センチくらいしか離れていない店もある。当然、隣の人の話は、明瞭に全て聞き取れる。札幌では、ラーメン屋でもないがきり、そんな狭苦しい店は存在しない。北海道人の私の感覚から言えば、隣の人に自分たちの話が聞かれているようで、落ち着いて話したり、お茶を飲むことも出来ない。これは、北海道人は東京人よりもパーソナルスペースが広いということを意味しているだろう。
 今回、アメリカで家探しをして、安いアパートも結構見た。しかし、アパートが安いからといって、部屋は決して狭くはない。高級アパートと同じく、1LDKでも日本の2LDK以上の広さがあって、天井も高い。アメリカ人にも貧しい人はたくさんいるわけだから、日本では独身者が住むのが当たり前の1DKのアパートが、格安の家賃で出ていてもいいだろう。しかし、そんなものは存在しない。実際、シカゴで不動産屋に「もっと狭い部屋で良いからは安いところないのか」と聞いてみたのだが、日本のように狭い部屋というもの自体がアメリカにはほとんど存在しないみたいだ。例えばお金のない人は、便利な地区の狭い部屋に住むのではなく、不便で治安が悪い地区の広い部屋に住んでいるのである。これも、パーソナルスペースのせいだろう。
 さて、こんなことを考えながら、ブルースに酔いしれていると、時間はアッという間に過ぎる。「音楽聴きながらそんなこと考えているのかよ」と突っ込みを入れたくなる人もいるだろうが、私の場合はリラックスした状態になると、妙に頭が冴えてしまうのだ。

 さて、終了時間の21時30分が来た。フィナーレはかなりの盛り上がりであった。途中で帰る人もあまりいなかったようだ。しかし、この公園にいる数万人の人たちが一度に帰るとどうなるのだろうか? ちょっとしたパニックになるのでは? と、心配になる。日本では、コンサートとかプロ野球とかの帰りは、道が動けないくらい人で一杯になる。すいていれば、10分で地下鉄の駅に行けるところ、20-30分もかかってしまう。地下鉄駅も人でごった返す。そんな混雑を避けるために、ご存知のように、プロ野球では勝負のついた試合は、9回の表でもボチホヂ帰る人が出始めたりする。
 よし、ブールース・フェスティバルが終わった。敷物をまとめて帰り支度をして、電車の駅目指して歩き出す。他の人たちも、ぞろぞろと大勢の人が歩き出す。
 あれ、おかしいぞ。
 なぜか道はそんなに混雑していない。不思議だ。日本の道路よりは多少は広いが、所詮は公園の小道。極端に広いわけでもない。  そう思っていると、橋にさしかかった。
 ふと数年前、神戸の花火大会の帰りに起きた橋上での圧死事件のことを思い出した。このアメリカ人たちは「日本で、歩道橋の上で圧死した事件があった」と言っても、その状況を想像することすらできないのだろうなあ。
 なんで、そんなに混むの? 
 あるいは、そんなに混んでいれば、回り道知れば良いじゃない?  確かに、その通りだ。
 圧死事件は会場の交通整備の不手際ということになっている。しかし、アメリカ人がこの橋の手前まで来たらどういう行動をとるだろう。おそらくは、おしくら饅頭状態の歩道橋は迂回して、何百メートルか遠回りでも、別な道を行くに決まっている。
 当時、一体現場がどんな状態になっていたのかわからないが、これだけ混んでいるのに、さらに後から後から、まだ人が押し寄せてきたというから不思議だ。
 パーソナルスペースの習性は、原始的な動物にも備わっている。というか反対で、もともと動物が持っていた「縄張り」意識が、進化したホモサピエンスに残存しているのが、パーソナルスペースなのだろう。我々現代人は満員電車などに慣らされてしまい、こうしたパーソナルスペースの習性が退化しているのか・・・。同じ区域にたくさんの種が存在すると、食物不足に陥るし、いらぬ争いも生じる。動物の縄張り意識は、生物の自己保存則に基づくものだ。
 「アメリカ人は野蛮だ」と言う人も少なくないが、こうした野生の本能を失った現代化された日本人が優れているとは決して言えないだろう。

 あいかわらず、帰り道は空いている。直近の地下鉄駅に到着するが、フェスティバル帰りとおぼしき人は、その駅にはたったの20名くらいしかいないというのだから、全く不思議だ。その理由を考えてみる。
 コンサートが終わっても、そんなに道路が込んでいないのは、一斉にみんなが「帰る」という同じ行動をとらないからである。
 彼らの動きを見ていると、日本人というのは本当に余裕がないなあと思う。狭いからしょうがない。でも、時間的にも切羽つまっている。仕事だけでなく、遊ぶ時にもだ。
 コンサートや野球が終わったら、こんどはすぐに電車に乗って帰らなくてはいけない。ほとんどの人がそう思う。恥ずかしいことに、私自身がそうした考え方を持っていた。
 しかしこちらの人は、コンサートが終わったからといって、「よーい、ドン」で帰るわけではない。コンサート会場に座ったまま余韻にひたっている者もいる。おしゃべりに興じている者もいるし、引き続きドンチャン騒いでいる奴もいる。あいかわらずビールを飲んだり、フライドポテトを食べ続けている奴もいる。まあ、半分以上の人は帰り支度をし始めているが、別に急いだ様子もなくのんびりと、そしてマイペースだ。
 非常に多様性がある。悪くいえば、バラバラ。まとまりがない。自分勝手。しかし、いろんな人たちが、いろんなことをしているのだ。
 日本でテレビを見ていると、ブッシュ政権のイラク攻撃に、大多数のアメリカ国民が賛成しているように思えるが、それはマスコミが作り上げた虚像である。熱狂的な戦争支持者もいれば、戦争反対者もたくさんいて反戦デモも起きているし、無関心な若者もいる。アメリカは、そんな単純な国ではない。実際、このフェスティバル会場でも、「殺人はやめろ」とか「ブッシュは殺人鬼」といった、バッチやTシャツを個人で売っている人が何人もいた。
 むしろ、日本人の方がヒステリカルで危険なようにも思う。例えば、イラク人質事件の時の「個人責任論」のように、一つの意見に世間がどっと偏る。多様性がなく一つの方向に走りやすくて危険なのは、アメリカ人ではなく日本人ではないのか・・・。
 まあ、お笑い路線のシカゴ日記にも少し飽きてきて人もいるだろうから、精神科医らしく真面目なことも考えてみた。
 なんちゃって。
(2004年6月19日)

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