[映画の精神医学]


K-PAX 光の旅人
 オフィシャル・ページ
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 K-PAX星人プロートを演じるケビン・スペイシーの抑制された演技が光る佳作である。『アメリカン・ビューティー』、そして、この『心の旅人』を見ると、ケビン・スペイシーはダスティン・ホフマンのような地位(さえない親父役をやらせると右に出るものがいない)を獲得しているように思えた。
 精神科医パウエル役のジェフ・ブリッジスもピッタリとはまっている。

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K-PAX星人プロート
(ケビン・スペイシー)

 プロートが本当のK-PAX星人かどうかという疑問は、映画的には「つかみ」という意味では重要だが、後半はプロートとパウエル、そしてプロートと患者たちの心の交流へと描写の主眼が移っていく。プロートはK-PAX星人だったのだろうか? そんな謎を残しながら、プロートに触れた人々は癒しへと向かっていく。もちろん、パウエル医師も。仕事に忙殺され、忘れていた息子との交流を思い出し、映画は幕を閉じる。涙が出るという感動ではないが、何かしみじみとして心が温まる。良い映画である。

プロートはK-PAX星人か?
 さて、プロートは本当にK-PAX星人だったのだろうか? この問題は、実はあまり本質的ではない。『エヴァンゲリオン』における「死海文書」のようなもので、あまりこだわりすぎると映画を勘違いして解釈することにも、なりかねない。すなわち、映画のテーマは、彼が宇宙人かどうかではない、別なところにあるということ。
 しかし、どうしても彼がK-PAX星人だったか、割り切れないモヤモヤとした気持ちの人も多いかもしれないので、この問題について簡単に考察してみよう。

 プロートは本当にK-PAX星人だったのか? 結論から言えば、K-PAX星人であったとも考えられるし、そうでなかったとも考えられる。すなわち、両方で解釈できるように、映画が作られているというのが正しいだろう。
 『K-PAX』のテーマの一つは、「信じればそれは実現する」ということである。 
 例えば、科学者の目の前で宇宙旅行をしてみろと言れたプロートが、「アミーゴ。アロハ」と早口で言う。一瞬のうちに、宇宙旅行をして戻ってきたのだという。これを口からでまかせの嘘と言えばそれまで。しかし、これが宇宙旅行だと言えば、そうかもしれない。考え方しだい。それを信じるかどうかが重要なのだ。
 プロートに触発された患者たちは、プロートの話を本気で信じていく。信じること。それは癒しに通じる。自分自身や他人を信じられなくなっていた患者が、プロートのK-PAX星の話を信じることを通して、心の壁を取り除いていく。
 7月27日。硬直したプロートが自室からストレッチャーに乗せて運び出される。そのとき患者の一人が、「あれはプロートか?」と言うのに対して、別な男が「いや、プロートじゃない。彼は、K-PAX星に行ったから」と言う。ストレッチャーで運ばれた男の顔は、どうみてもプロートである。しかし、プロートの話を信じた者にとっては、そう見えなかったのだ。プロートの話を信じた者にとっては、プロートはK-PAXに戻った。その点において、プロートはK-PAX星人だったと言える。
 パウエル医師は、プロートがニューメキシコに住むロバートという男であると確信した。しかし、エンドロールでの望遠鏡を覗くカットは、「ひょっとしたら」という可能性を捨てられないパウエルの「信じる心」を表しているのだろう。
 見えると思えば見えるし、そうでなければそれが存在したとしても目に見えてこない。パウエルと、離婚した妻との息子との関係がそうである。パウエルは、息子のことを忘れていたわけではない。気にはかけてはいたが、日々忙しい仕事に忙殺されて、意識の外におかれてしまっていた。プロートに指摘されて、初めて息子との関係の大切さを再認識し、息子と一緒に過ごす時間を作る(エンドロール)。愛情や人の大切さというのは、見ようと思う目を持たないと見えてこないものだ。
 プロートは、信じること、見えないものに目を向けることの大切さを周囲に伝えていく。
 信じればそれは現実なる。このテーマに照らせば、あなたがプロートをK-PAX星人だと信じれば、それは正しい解釈として許容されることを示している。

ロバートは、なぜK-PAX星人になったのか?
 そうは言っても現実的に見れば、プロートはK-PAX星人ではなく、ニュー・メキシコの住人、ピーター・ロバートが家族惨殺事件に遭遇し、そのトラウマから回避するめために記憶喪失となり、「自分はK-PAX星人である」というファンタジーの世界の住人となったと考えられるのが妥当であろう。
 プロートが、ピーター・ロバートであるという最大の証拠は、彼の名前にあるだろう。
ProtP-Rot) は Robert Poterを、短くしたものである。プロートが初めて名前を聞かれるシーン。彼は、一瞬とまどって、「プロート」と言う。この時、自分の本名を覚えていたのか、あるいは記憶喪失になっていたかは不明であるが、彼の頭の中にあったPeter Robertという名前から、Protは生み出された。  

 「K-PAX星では家族のつながりがない」とプロートは言う。これは、家族を失ったロバートのトラウマが、彼の心を閉ざさせてしまったことを示す。家族愛、すなわち自分の家族との暖かな交流を、事件と一緒に忘れ去りたいという心性である。
 しかし、プロートは「人間のつながりがない」と言う一方で、パウエル医師や他の入院患者と、深い人間関係を築いていく。プロートの態度や喋り方はいたってクール。しかし、単純ながらも含蓄のあるプロートの言葉に、パウエル医師や他の入院患者は心を動かされ、プロートという人間に魅了されていく。
 プロートの表情や態度が、やや冷たい感じがするのは、家族の死という究極的に悲しい出来事に遭遇した彼が、自分の感情を素直に表出できなくなったためと考えられる。もし彼が素直に感情表出するするとすれば、毎日泣き暮らすしかない。深い悲嘆の淵に追いやられたプロート。プロートは、「家族の死」の記憶を封印するとともに、素直な感情表出をも封印してしまったようだ。
 クールな態度を貫き通すプロート。しかしその反面、彼が他者からの救いを求めていたのは明白である。そしてそれは、「自分がK-PAX星人である」という奇異なアピールとして表れていた。
 プロートは、バウエル医師や天文学者たちのいろいろな質問に、臆することなく、積極的に答えていく。プロートがK-PAX星についての質問に答えることは、本当に彼がK-PAX星人であったなら、彼に何の利益をもたらさない。おかしい奴と思われて、精神病院から出られなくなるだけ。K-PAX星について黙っていれば、すぐに退院できたかもしれない。いや、むしろ彼は入院していたかったのではないか。
 北方を観察してくるといって、しばらく病院を抜け出していなくなるエピソードがある。これも考えてみると、病院に戻ってくる必要など微塵もないのである。彼が本当のK-PAX星人であるとすれば・・・。しかし、彼が患者だとすれば、一人では暮らして行けない、あるいは他者とのつながりが必要な彼は、病院に戻ってくる必要があった。

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プロートと天文学者
との論争

 プロートは、多くの人たちの気を引きたかった。自分という人間に近づいて欲しかった。それは、家族を失い感情表出を拒むロバートの心性の、裏返し。本当は家族を失って寂しい。それを補うような友情が欲しい。
 心を閉ざしてながらも、人とのふれあいを求めている。一見矛盾するが、だからこそ彼は「病(やまい)」なのである。家族の喪失を受け入れて、それを割り切って、新たな友情や愛情が構築できるとすれば、プロートはこんな病気にはなっていない。
 プロートの目論見(あるいは心の底の願望)は成功し、パウエル医師と入院患者たちは、プロートに引かれていくのである。
 プロートが、天文学者の前で明らかにした、驚くべく天文学の知識。なぜ彼が、天文学者たちでさえ知らなかった事実を知っていたか? 彼がK-PAX星人になるために、信じられないほどの努力や手間をかけていたとすれば、それこそが彼のトラウマの深さを示す。彼は「人間」としては、あまりに心に深い傷を負ってしまった。したがって、「人間」としては生きて行くことができず、「K-PAX星人」になるしかなかった。ロバートが、家族を失った後の五年間に何をやっていたかは不明である。しかし、「K-PAX星人」になるための努力(勉強)、あるいは自分が「K-PAX星人」であると病的に信じ込んで(確信して)、それについて信じられないほど調査した可能性がある。なぜ、そんなことをしなければいけなかったか(あるいは無意識的にでもしてしまったか)。それは、現実から逃避したかったからに他ならない。
 彼がK-PAX星人として生きる。その意味は、人間として生きることを止めたということである。  
 プロートは、他の入院患者や、さらにはパウエル医師までも癒していく。では、なぜそんなことが可能だったのか? それは、プロート(ロバート)は家族を失ったから。すなわち、他の誰も経験していない、家族の喪失を経験していたからこそ、家族愛、人間のつながりの大切さを知っていたのである。家族の大切さを再認識したプロートだからこそ、離れ離れに住む家族の大切さをパウエルに教えることができた。
 こう考えると、プロートのとる行動のほとんどを、彼の家族喪失の体験と結びつけて考えられるだろう。

コラム 『オー! ゴッド』のパロディ?
 昔、『オー! ゴッド』という映画があった。平凡な若者の前に、ある日突然「神」を名乗る老人が現れる。しかし、彼は野球帽をかぶり眼鏡をかけた、ただの爺さん。どう見ても「神」には見えない。しかし彼は、聖書についてあらゆる知識を持ち、聖書の裏話まで暴露する。話は大騒動となり、この爺さんが本当の神かどうか、神学者を交えた大論争となる。「神」とは何か? 「神」は本当に存在するのか? そんな大問題をコメディとして笑いを交えながら描ききった傑作である。

 『K-PAX』は、『オー! ゴッド』と全く同じ話である。原作者がどこまで意識的にまねたのかは知らないが、『オー! ゴッド』の「神」を、「宇宙人」に置き換えれば、そのまま『K-PAX』になる。

コラム 天文学者の知らない事実を知りえた理由
 プロートが天文学者が知り得なかった事実を知っていたのは、プロートがK-PAX星人の動かぬ証拠だと思っている人もいるだろう。しかし、本当にそうだろうか。この映画には、科学万能に対する批判的な視線が存在する。プロートが明らかにした事実に対して、学者の一人が「このことは、OO博士しか知らないはず」ともらす。しかし、これは科学者のおごりではないか。ある博士が知りえた事実であれば、別な人間がその事実を知っている可能性が、全くないということはありえない。「OO博士しか知らないはず」のような言葉があっさり出てしまうことこそ、全く科学的でない。自分たちだけが最高の研究者で一般人にはわかりっこないという、科学者のおごりが、このセリフに現れている。そんなことを言う学者は、どうみても優秀な学者とは思えない。したかって、プロートのにわか勉強が、彼らの知識を凌駕する可能性も否定はできないのではないか。
 これと似た描写が、何度か繰り返される。精神病院での治療もそうだ。舞台となるニューヨークの集中治療ユニットでは、最高の医療が提供されていたはずだ。しかし、そこには治らないで、何年も入院していた患者がたくさんいた。
 しかし、現代医学では治らなかった患者たちが、プロートととの心の交流によって次々と癒されていく。現代科学とは何だったのか? 「現代医学では治らない患者」というレッテルも、天文学者たちと同様に、科学者たちの先入観に他ならない。
 物理現象、科学現象にとらわれすぎている現代社会に対する批判。科学万能の価値観を捨て去って、初めて見えてくるものがある。そんな視点が存在する。
 したがって、天文学者の言葉を真に受ける必要は全くないだろう。
 

コラム パウエル医師の治療は適切だったか?
 パウエルは非常に熱心にプロートにかかわる。病院からプロートを連れ出し、自宅のパーティーに招待したりもする。あまりの熱の入れように、他の医師も警告する。このパウエルの熱心な治療は、妥当なものであったか?
 パウエルのプロートに対する過剰な入れ込み。これは、専門用語で言えば「逆転移」である。「プロートがK-PAX星人であるかどうか?」これは非常に興味深いかもしれないが、それを調査しても、プロートのためには全くならない。彼が宇宙人であろうが、なかろうが、プロートの将来、彼がどう生きていくかには全く関係しない。その謎の真贋の判定は、パウエルの好奇心を満たすだけの意味しか持たない。
 実際、映画の最後、彼の話の真贋はプロートの治療に全く役に立っていない。というよりも、彼の強引な催眠療法や、卒業アルバムを見せたりする行為は、全く治療的ではない。
 7月27日、彼は硬直状態となる(専門的にみると、カタレルプシーの状態)。このシーンの意味がわかりずらいだろうが、この解釈の一つは病気が悪化したという可能性である。過去を封印し、過去を忘れることで、初めて他者との交流が可能であったプロート。そのプロートに、彼が忘れたがっていた過去を突きつけたらどうなるのか? 大きな精神的なショックを受けることは明らかである。パウエルは、プロートが忘れたがっていた、忌まわしい記憶を思い出せてしまった。結果としてプロートのとる行動は、一切の他者との交流の遮断、すなわち硬直状態ということになる。
 K-PAX星では人と人との功理由はない。その定義に従えば、カタレプシーに陥ったプロートは、「K-PAXに行った」と言えなくもない。
 一見熱心で、一生懸命なパウエルのとった行動は、ほとんどが治療的でなかったとは皮肉である。

コラム 抗精神病薬が効かなかった理由
 プロートに抗精神病薬が効かなかったことを、プロートがK-PAX星人の証拠の一つと考えている人がいるようだが、それは違う。
 プロートのK-PAX星人に関する言動が、分裂病性の妄想であれば、抗精神病薬の投与によって治ったかもしれない。しかし、彼のK-PAX星人に関する言動は、彼のトラウマ体験と関連して生じた神経症圏の症状なのである。したがって、抗精神病薬がかないのは全く当然。これは、プロートがK-PAX星人の証拠なのではなく、彼の言動がトラウマの影響を強く受けている証拠なのである。

 

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