[映画の精神医学]


マトリックス リローデッド
 
 「象徴」からの解読

 オフィシャル・ページ

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アーキテクトのいる部屋に
たどりついたネオ


第3弾 アーキテクトとは何者か? 神、それとも悪魔?
 予言に従い、「ソース」を目指し、ようやくたどりついたネオ。

 ドアを開けると、そこには神々しい白い光が広がる。そして、そこにいたのは・・・。
 髭もじゃのただのおやじ。いや、失礼。
 「ソース」での出来事が、本作のクライマックスとなるだろうと思い、観客は見ていたに違いない。しかし、そこにいたのは、ただのオヤジだった。彼は、「アークテキト(設計者)」と名乗る。マトリックスの生成と、ネオとザイオンの正体について語るが、それは謎解きではなく、禅問答。哲学論議にも近い。前作では明かされなかったいくつかの秘密は明かされたが、このシーンを見て、余計映画が分からなくなった人の方が多かったに違いない。本作で最も面食らうシーン。このシーンがあるがゆえに、ほんどの観客は、単純に痛快なアクション映画ではなく、「意味不明な不可解な映画」として、頭を抱えながら、帰宅するはめになる。
 さて、「アーキテクト」とは何者だったのか? プログラム? AI? 機械? 人間?
それとも、ただのオヤジ? 映画で彼が自ら語る以上の説明がない以上、本当の「アーキテクト」の正体は、次作での追加説明を待たなくてはいけない。映画のストーリーり辻褄あわせに熱心になると、「マトリックス」は余計分からなくなる。しかし、もう少し映画を高いところから見て、「象徴」あるいは「テーマ」という視点から見ると、本作は実に単純である。

 

 「アークテキト」とは何者か。
 彼自身は言う。
 I created the Matrix. (私がマトリックスを作った)
 アーキテクトとは、マトリックスの作り手である。
 「The Creator」には、特別な意味がある。世界の創造者、すなわち「造物主」、「神」のことである。「The Creator」は、「The God」と同じ意味である。
 「アークテキト」は、マトリックスを作った人物。つまり「仮想現実世界の創造者」である。
 「神」とは何か? 宗教学的にはいろいろな答えがあるだろうが、その最も簡単な答えは前述のとおり「造物主」という答えがありうる。「世界と人間を作った存在」を、(キリスト・ユダヤ教では)「神」と規定している。
 つまり、マトリックスの設計者は、仮想現実世界の創造者であり、仮想現実世界においては「神」と同質の存在ということになる。象徴的意味からは、「アークテキト=神」と言えるだろう。彼のいる部屋が、神々しい光に包まれていたのも、そのためである。
 さて、その神が、単なる髭オヤジだったのは?
 『オー! ゴッド』(1977年、カール・ライナー監督)では、野球帽を被った爺さんが「神」として登場し、神学者と宗教論争を戦わせる。『ジャンヌ・ダルク』(1999年、リュック・ベッソン監督)では、「良心(悪魔? 神?)」が、ダスィン・ホフマン演じる単なるオヤジとして登場し、良心の呵責にさいなまれるジャンヌとの間で、宗教問答、哲学問答を繰りひろげる。
 このように、「神」や「悪魔」が、平凡な人間の姿として登場することは、映画の中では、よくあることである。形而上的な存在は、もともと形など持たない存在であるから、逆にどんな形態をとって視覚化されても不思議ではない。

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『ジャンヌ・ダルク』
存在化し宗教問答を

けしかける「良心」
(ダスティン・ホフマン)

神による究極の選択

 さて、そのアーキテクトは、ネオに究極の選択を迫る。一方は、「ソースに通じるザイオン再建の扉」、もう一方は「マトリックスに通じるトリニティを救う扉」である。
 そのどちらかを選択しなくてはいけない。
 さて、この話を聞いて、似た話を思い出す。

 旧約聖書、アブラハムとイサクの物語(旧約聖書「創世記」第22章)である。
 神はアブラハムに、自らの神へ信仰を示すために、最愛の息子イサクを、いけにえとして奉げるように命令する。アブラハムは、山にイサクを連れて行き、イサクをしばりナイフでイサクを殺そうとする。その直前に、神はアブラハムを止め、アブラハムの従順な信仰を喜ぶ。

 熱心な信者アブラハムに、神が「最愛の息子の命」と「神への信仰」のどちらかを選べ、と迫る場面である。
 このように神は、しばしば人間に厳しい試練を与える。
 「神への信仰」をとるか「愛する息子の命」を選ぶのか・・・。これは、究極の選択である。
 「ザイオンの救済」と「愛するトリニティの命」の二者択一を迫ったアキーテクトと、酷似する。
「ザイオン救済」の扉の向こうには、何をあったのか?
 さて、究極の選択で、ネオは「トリニティの命を救う扉」を選ぶが、「愛する一人の命よりも、ザイオンの25万人の命を救うべき」だと、考えた人はいなかったのか? あるいは、もう一つの扉を選べば、「ネオはザイオンを救済し、救世主になれたのに・・・」と。
そう考えたあなたは、霊感商法やマルチ商法に引っかからないように注意した方がいいかもしれない。

 象徴的な意味で、「アークテキトは神」という見方は可能であると同時に、「アークテキトは悪魔」という見方も成立する。トリニティの命をもてあそび、また今まで5回もザイオンを破壊したアーキテクトを、「神の象徴である」と素直に理解できない・・・。
 むしろ、「悪魔」ではないのか・・・。
 アーキテクトの言葉の端々に悪魔的なものを感じた人もいるかもしれない。

 ネオは、はじめてアーキテクトと会う。「彼は本物のアーキテクトなのか?」 
 彼が本物のアーキテクトである証拠は何もない。
 あるいは、「本物のアーキテクトであったとしても、彼が語る内容は、全て正しいのか?」
 テレビ画面に映るネオ(ネオの内面の声?)は、 「5バージョン? 3? また嘘をつかれてるんだ。嘘っぱちだ! 」と、アーキテクトが嘘を言っている可能性も示唆している。
 彼が、正しいことをネオに語らなければいけない必然性は全く存在しない。

 アークテキトの究極の選択と似た別のエピソードを、新約聖書から引用しよう。
 (マタイによる福音書第4章1節〜11節)
 イエスはヨハネから洗礼を受けた後、荒野に40日こもる。そして断食して、最も弱くなったイエスの前に、サタンは現れ、イエスにさまざまな誘惑の言葉をかける。最後にサタンはイエスを高い山に連れて行き、この世の栄華を見せて「もしあなたがわたしを拝むなら、これらを皆あなたにあげよう」と言う。イエスは、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と、誘惑を断固として断るのだ。 

 さて、ここで質問する。
 「イエスは悪魔の誘惑に負け、サタンを拝むことに同意したなら、世界の支配者として君臨できただろうか?」
 こうした仮定は、極めて不遜であるが、「世界の支配者として君臨できるはずがない」だろう。これは、悪魔の誘惑である。イエスの信仰心を崩すために、ありとあらゆる手段を用いたわけだ。いうなれば、嘘八百。
 高額商品を売りつけるために、嘘八百を並べ立てる霊感商法とそう変わりはない。
 アーキテクトにとって、ネオは最も厄介な存在。その彼に、マトリックスのシステムの真相を教える必要性は、全く存在しない。
 アーキテクトの語りは、一種の誘導。
 もし、ネオに真実を伝えたいと思っているのなら、もっとわかりやすい言葉で詳しく説明すれば済んだはず。我々観客が、アーキテクトの話で混乱させられたように、ネオを混乱させ、自分に都合のよい判断に導こうとしていたのでは・・・。
 すなわち、「ソースへの扉」を選ばせるという。
 アーキテクトを悪魔と理解するなら、以上のような虚言説も考えられる。
 アーキテクトは、「神」か「悪魔」か? その答えは、「レボリューションズ」で明らかにされるはずだ。

以下補足 「マトリックス・レボルーションズ」公開後
 

 さて、「レボルーションズ」なおいて、アーキテクトの正体は神だったのか? 悪魔だったか? 答えは、「神」だったということなのだろう。アーキテクトは、ネオとの口約束を、ネオの死んだ後も、律儀に遵守し人間を解放した。
 そこで約束を反故にすることもできたはずだが、そうしなかったことが「神」の象徴である証拠だ。
 ネオとアーキテクトの約束は、人間と神との新たなる契約なのである。
 言いかえれば、マトリックス・シリーズは、人類の新「新約聖書」だったということである。
関連資料 アークテクト/ネオ対話スクリプト採録

 

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