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AI  完全解読編  第2章

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 ここでは、メインのテーマではありませんが、メインのテーマに通じる補足的な問題について論じます。
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ホビー博士はなぜ、マンハッタンにいたのか?
 
 「完全解読編 第1章」をお読みになった方から、多くの反響をいただきました。しかし、いくつか映画の基本的な描写で誤解されている方が多いように思いましたので、その点について補足説明したいと思います。

 ホビー博士は、なぜマンハッタンにいたのか? あまり重要な疑問には思えないかもしれないが、この点が『AI』をより深く理解するための鍵である。

 ホビー博士は、マンハッタンの廃墟ビル(ロックフェラーセンターに見えたが?)に隠れて、「永遠の愛」を持つロボットの研究をしていた。なぜこんな廃墟で、人目を忍んで彼はロボット研究をしていたのか?
 それは、隠れてやらなくてはいけない研究だからである。社会的に歓迎される研究であれば、彼の個人的研究としてやらなくても、会社が大量の資金援助をしてくれるだろうし、自分の会社で堂々とやればいいだけの話である。少なくともロボット会社は、愛のあるロボット開発を好意的に思っていなかった。
 ホビー博士が周囲からどう思われていたのかを示すのが、ファーストシーンである。最先端のロボットをお披露目し、凄いという感嘆の声があがる一方で、あまりにも進んだロボットを開発することに疑義を提出する研究者もいた。ホビー博士は研究者としては超一流ではあるが、彼の研究スタンスは多くの人によって支持されているわけではないというのが、このファーストシーンによって説明されている。
 では、当時の一般人のロボットに対する認識は、どのようなものであったか? ロボットは便利な道具として重宝されるが、不用になったロボットは容赦なくスクラップにされる。ジコロ・ジョーの性欲処理が極めて象徴的であるが、人間とっての便利な道具として、人間はロボットを重宝し、歓迎していた。しかし、それはイコール・パートナーではない。単なる道具として重宝していた。したがって、ジャンクになったロボットは処理するというのは、当たり前のこととして受け入れられる。道具と言えば聞こえは良いが、わかりやすく言えば奴隷である。当時の一般的な人々は「愛」を持つロボット、すなわち人間とのイコール・パートナーは望んでいなかっただろう。
 ではウィンストン夫妻が提供されたも「永遠の愛を持つロボット」であるデイビッドとは、一体何だったのか。彼は、ホビー博士が会社に隠れて、個人的に作成したロボットと思われる(それが、後半のマンハッタンのシーンで明らかにされる)。夫サムが、デイビッド提供の話をどこからか持ってくるわけであるが、これが異常にうさんくさい。これは、ロボット会社が公式な治験(実験的使用)として、ウィンストン夫妻に持ちかけた話ではなく、ホビー博士の独断先行(おそらく会社に隠れて行うなった実験)なのだろう。
 その根拠は、「永遠の愛」のプログラムを発動させる「7のパスワード」にある。この、「7のパスワード」を入力した後は、それを解除するのにはロボット全体を廃棄するしかないというのだ。非常におかしな話だ。ソフトだけを消去すれば済むだけの話なのに。そうすれば、何度だって転売できる。
 この点について、こんなおかしなロボットがまかり通るような設定を許している『AI』はダメな映画たどいう指摘がネット上のBBS上にありましたが、それは見当違いな指摘である。わざと違和感のある描写を埋め込むことによって、何かを伝えようとしているわけであるから。 
 この「ハードの破棄によってしか、プログラムを解除できない」という異常なロボットによって、デイビッドが正規の提供でない、うさんくさいロボットである彼の出自を証明している。ホビー博士が手塩にかけた最先端ロボットが、他の会社や研究者などに渡らないようにする防御策のように読めます。また、会社の利益とは関係無しに、ホビー博士が個人の趣味でやっている実験なので、再生再利用する必要も全くない。あるいは、実験を途中で中断させないためのモニカへの足かせである。

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モニカ

 デイビッドが当時のロボット技術からみて一般的なものではなく、極めて進んだ最先端型のロボットであることを示すのは、ジャンク・ショーのシーンである。人間がロボットと間違って捕まえられているという娘からの連絡で様子を見に行った係員の男が、どうみても人間にしか見えないデイビッドにロボット反応があることを知って、こんなロボットがあったのかと驚嘆する。ロボットの仕事に関わるこの男が始めて見るというほどに精巧なロボットガデイビッドである。すなわち、デイビッドが市販されているロボットではないこともこの描写からわかる。
 これらの描写から、サムがデイビッドを連れてきたのは、「最新型のロボットでいいのがあったから買ってきたよ」ということではないことがわかるだろう。
 ウィンストン家の不死の病であった息子が、奇跡的に最新の治療法の開発によって治癒し、家に戻ってくる。このくだりを映画ならではの、ご都合主義と感じた人も多いだろうがそうではない。わざとそうなることを知っていて、ホビー博士がウィンストン家にデイビッドを送り込んだと考えれば、息子の奇跡的な生還は、偶然ではなく必然である。
 一流の科学者であるホビー博士にとって、医療の最先端の研究がどうなっているのかを知るのはたやすい。むしろウィンストン家のように、本物の息子と偽りのロボットというアイデンティティの問題を喚起するような環境が起こるような家庭を、何万組という候補から選択してきたということではないのか。
 マンハッタンで、デイビッドに会ったホビー博士は、「ここに来ると思っていたよ」と言う。ホビー博士は、こうなることを全て知っていたということである。デイビッドのアイデンティティの目覚め、自立、人間になりたいという欲求、これらの全てをホビー博士は予測して、そうなるかどうかを実験していたということだ。
 デイビッドがウィンストン家に来たということは、ロボット会社の販売行為ではない。ホビー博士の壮大な実験(あるいは独善的な実験)であったわけだ。そうすると、なぜホビー博士は、こんな実験をしたのかということが問題になる。ホビー博士の研究所に、彼が子供と一緒に写っている写真が見える。おそらく、ホビー博士の子供は、幼くして死んだのだろう。その無き息子の影を追って、彼は自分の愛を受け入れてくれる存在、すなわちロボットを作り続けるのだ。
 しかし、ホビー博士の亡き息子への愛、あるいはロボットであるデイビッドへの愛を、あなたは素直に了解することが出来ただろうか。別な面から考えると彼の実験は、ウィンストン家の家族を滅茶苦茶にして、モニカに精神的苦痛を与えているわけで、ホビー博士はとんでもない奴と言えるだろう。だから、独善的な実験と書いた。
 ホビー博士は、亡くなった息子に対して永遠の愛を持っている。あるいは、そう彼自身が思っている。だからこそ、「永遠の愛」を受け入れてくれるロボットが、ホビー博士自身にとって必要であった。
 マンハッタンの研究所に、デイビッドと全く同型のロボットが何台も並んでいるのは、かなり不気味であった。いや、一種の戦慄を感じた。そして、そのロボットの名前は、全てデイビッドなのだ。おそらく、ホビー博士の亡くなった息子の名前もデイビッドではないのか。
 ホビー博士の息子、そしてロボットへの愛は偏執的である。というか、明らかに偏執的なものとして描いている。ここで、映画のテーマに戻ろう。「永遠の愛など存在しない。」ホビー博士の亡き息子への愛情は、永遠の愛のように思えるが、その独善によってウィンストン家の人々や、彼の開発したデイビッド自身が大きく傷つくのである。「永遠の愛」に対するネガティブなメッセージが、ホビー博士によっても補強されている。
 ホビー博士はロボットに対して深い愛着を抱いているように思える。というか、私もそう思っていた。しかし、実際は違う。彼は自らの開発した子供のようなロボットが、苦しみもがく様子を、楽しげに観察していたであろうから。開発者であり実験をしかけたホビー博士は、デイビッドがモニカに捨てられ傷つくこともまた知っていたのである。
 ホビー博士にとって、ロボットは所詮ロボットなのだろう。ロボットに自分の息子を本当にオーバーラップさせているのなら、デイビッドが苦しむ様を客観的に観察などできるはずかない。
 そもそも、「永遠の愛をインプットされたロボット」という設定自体に、何か違和感を感じなかったか? 感じて当然であろう。永遠の愛を持つ子供など、現実にはいるはずはないのだ。デイビッドの「永遠の愛プログラム」は、私には「永遠の服従プログラム」にしか見えない、人間の子供というのは、小さい頃は唯一絶対の存在として親を慕うが、思春期に入ると反抗期を迎える。親に反抗し、その葛藤と軋轢の中から、いろいろなものを学習して、大人へと成長していくのである。逆に言うと、葛藤や軋轢を乗り越えるから、本物の親子の愛情へと成長するのだろう。
 ラストシーンを見て、デイビッドにプログラムされた「永遠の愛」のプログラムはなんて素晴らしかったんでしょう、と誤解している人も多いのかもしれないが、手放しでは喜べないこのラストの複雑さは、「永遠の愛」に対する疑義が、『AI』の作品全体に流れているからなのであろう。
 なぜ、主人公のロボットの名前は、デイビッドと言うのか?

 なぜ、主人公のロボットの名前は、デイビッドと言うのか?
 熱心な映画ファンの読者は、「そんなことお前に言われなくてもわかる」と思われるかもしれないが、その反論はとりあえず最後まで読んでから、承りたい。
 デイビッドの一つ目の意味。それは、キューブリック的な側面から理解される。キューブリックの代表作である『2001年宇宙の旅』のデイビッド・ボーマンに由来するだろう。木星探査の任務をおって宇宙船ディスカバリー号は、デイビッド・ボーマン船長たちを乗せ出発する。しかし、その途中非常に高度なAIを持ったコンピューター「HAL」が反乱をおこす。ボーマン対HALの壮絶な戦いの末、ボーマンはHALを殺すのだ。
 高度なコンピューターが、自分なりの思考、判断をし始める。その点において、『AI』と同じモチーフを備えている。逆に言えば、『2001年宇宙の旅』を作ったキューブリックが、『AI』のアイデアの源泉である「スーパー・トイズ」に非常に強い興味を抱いたのは、一部共通したテーマ性を持っていたからなのだろう。
 キューブリックのスピルバーグに残したシノプスに、ロボットの名前まで具体的に書かれていたどうかについては不明だが、スピルバーグのキューブリックに対する敬意も含めて「デイビッド」という名前が命名されたと思われる。

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主人公のロボット
デイビッド

 デイビッドの二つ目の意味。それは、スピルバーグ的な側面から理解される。『シンドラーのリスト』を監督したスティーブン・スピルバーグがユダヤ人であることは、周知の通りであるが、スピルバーグ作品のほとんど全てに、ユダヤ的な描写やテーマが加えられている。したがって、『AI』においてもそうしたユダヤ的テーマによる味付けを期待するわけだが、それがかなり露骨なところに現れていた。
 デイビッドとは「キング・ダビデ」を語源とするように、ユダヤ人に多い名前である。例としてデイビッド・クローネンバーグ監督や脚本家デイビッド・マメット(『評決』『殺人課』)を挙げておこう。したがって、何でそんなユダヤ名を普遍性、中立性を持たせるべき存在である主人公ロボットに命名したのかが疑問であった。しかし、それはジャンク・ショーのシーンで明らかになる。
 必要以上の残酷さほ持って、ジャンク・ショーの処刑シーンは描かれる。子供の観客だっているのにと思うが、そこには一つの大きな理由があった。『AI』の世界で冷遇され迫害されるロボットたちに、スピルバーグは歴史的に迫害を受け続けてきたユダヤ人の姿をオーバーラップさせているのだ。したがって、主人公ロボットの名前はユダヤ名でなくてはいけない。『AI』には、『ET』『インディ・ジョーンズ』『未知との遭遇』など過去のスピルバーグ作品の自己オマージュが数多く含まれている(詳しくは近日アップ)。その一つとして、『シンドラーのリスト』も含まれているということだ。
 特に、デイビッドが危機一髪で処刑される寸前をギリギリ助かるというくだりは、アウシュビッツ収容所に誤って転送されたシンドラーの工場のユダヤ人たちが、シャワー室まで連れていかれて、ぎりぎりのところで処刑を免れるというくだりとそっくりである。
 あるいは、ジャンク・ショーのシーンに、『グラディエーター』を感じた人も多いだろう。 『グラディエーター』は、スピルバーグたちが作った映画会社ドリームワークスの製作映画である。その点から言えば、自分の映画みたいなものである。『グラディエーター』ではローマ帝国の新皇帝が悪役となる。ローマ帝国といえば、ユダヤ人を迫害した元凶である。そういう意味で、このジャンク・ショーが、『グラディエーター』に似ているということも、それなりの意味を持っている。

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捕えられたデイビッド

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『シンドラーのリスト』

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『グラディエーター』の剣闘シーン
残酷な殺戮場面を見て歓喜する観客は『AI』と全く同じである。

 それと、キューブリックもまたユダヤ人であることは知っておきたい。その点から彼の監督作品『スパルタカス』を見直せば、また新しいものが見えてくる。『スパルタカス』もまたローマ帝国ものである。ローマ帝国で奴隷にされていた剣闘士たちの反逆の物語である。『スパルタカス』に「赤狩り」批判のテーマが含まれていることは、既に指摘されているが、ユダヤ人迫害に対する批判的テーマも含まれているのである。主人公スパルタカスは、劇中ではユダヤ人の役ではないが、彼を演じるカーク・ダグラスが代表的なユダヤ人俳優であるわけだし。
 やや脱線したが、いろいろな映画へのオマージュという視点から、ジャンク・ショーの処刑シーンにユダヤ迫害への批判的テーマが含まれていることは間違いなく、それゆえに「デイビッド」という名前に大きな意味が出てくるのである。

第3章 種々の映画作品との関連性
 『AI』に登場する未来世界。もっと、オリジナルな映像世界を堪能させてくれるのかと思ったが、過去のスピルバーグ作品、そしてロボット映画の集大成として、映像、そしてターマが構成されている。最初は「パクリか」と思ったが、一作品ずつ吟味してみると、それなりに深い意味を伴った引用のように思える。ロボット映画の総決算、あるいはロボット映画の金字塔を目指したということだろうか。  
 
『ET』
 説明するまでもない。クレーターまでもがくっきりと映った巨大な月。『ET』の自転車で空中浮揚するシーンのバックの月そのものである。
 また、ジャンク・ショーの手下たちが拉致しに来るシーンは、『ET』でETを拉致しに来る政府の人間の姿にもオーバーラップする。あるいは、『アミスタッド』の黒人を捕まえる白人か。
 考えてみれば、スピルバーグ作品というのは、弱者を描いた映画ばかりである。『ET』では、地球に取り残された宇宙人。『アミスタッド』では、奴隷にされた黒人。『カラー・パープル』では、家庭内暴力にさらされる女性。『シンドラーのリスト』では、ナチスに迫害されるユダヤ人。『プライベート・ライアン』では、戦場で命の危険にさらされる一兵士。『JAWS』なども、権力の前に無視される一般市民という構図を見ることもできる。『AI』では虐げられるロボットが描かれる。
 『AI』は、キューブリックらしさが強い映画であると言われるが、スピルバーグらしさも随所に光っているのである。

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「大きな月」は、USJの
アトラクションでもお馴染み

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弱者を捕まえに来る強者

『インディ・ジョーンズ』
 インディのかぶるつば広の帽子。ジャンク・ショーをしきるロボットハンターが被る帽子と、あまりにも似ている。この未来社会にこんな帽子が? やはり、インディの帽子を意識しているとしか思えない。
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『未知との遭遇』
 UFOからのインスピレーションを受けたロイは、何かに取り付かれたかのように、デビルタワーへと向かう。一心不乱。
 「人間になりたい」と思い立ったデイビッドが、青い妖精のもとにたどり着くまでの取り付かれたようながむしゃらな様子がそっくりである。
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『ジュラシック・パーク』
 『ジュラシック・パーク』では、恐竜のDNAから恐竜を再生してしまう。そして、復活させた恐竜たちが、人間のコントロールを逃れて、人間に襲いかかかる。神でない、人間が生命を誕生させようとした天罰が下るのである。ある種のクローン技術に対する、科学の倫理の問題が描かれる。
 人間に似たロボットを作るという行為。これも生命の創造と同じである。人間に良く似たAIの開発は、人間の創造に等しい。ファースト・シーンのロボットのプレゼンテーションで、神がアダムを作った話が引き合いに出されることがそれを示している。

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 「愛」をインプットされた人間のようなロボットを作るのは良いことなのか。ロボットが人間の代用になるのか?
 答えは言うまでもないだろう。
 ストーリー的には似ていないが、テーマ的な部分で非常に似た部分を持っている。

『ブレード・ランナー』
 ロボットと人間の関係を描いた作品の傑作と言えば、『ブレード・ランナー』である。街の雰囲気。ヘリコプターのデザインが『ブレード・ランナー』のスピナーにそっくりである。こうしたデザイン的な類似は明らかにであるとして、テーマ性の部分はどうなのだろうか。
 私は『AI』は、『ブレード・ランナー』の前夜という雰囲気がした。ジゴロ・ジョーは警察の逮捕に全く逆らうこともなく、従順に従った。『AI』のロボットは、人間に対して反逆を起こさない。デイビッドは、むしろ人間になりたいと思うわけだ。しかし、ロボットのAIがさらに進み、アイデンティティを持ち始めると、虐待をあまんじるということにはならないのではないか。あるいは学習機能を持ったロボットは、人間の暴力性を真似る。
 『2001年宇宙の旅』のHALは、人間に対して反逆を起こしたわけだが、それは反逆というよりも、人間の持つ暴力性、攻撃性を真似ただけともいえる。冒頭の類人猿が骨を道具とすることを学ぶが、それは暴力の道具として使ってしまう。人間は技術が進歩しても、それを戦争などへの軍事利用など、暴力的な方向にしか使えないという皮肉である。
 AI(人工知能)は、人間の知能、思考過程を参考に作られる(少なくとも、現代のほとんどのAI研究では)。人間が暴力的な存在である以上、AIが進歩すればするほど、ロボットが暴力性を発揮する可能性は高まるように思える。

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スピナーに乗るデッカード

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『ブレード・ランナー』の
未来世界


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『AI』の未来世界

 ロボット三原則に従って、人間に危害を加えないようにインプットされているはずのロボットが、『2001年宇宙の旅』のHALや、『ブレード・ランナー』のレプリカントのように、人間に危害を及ぼしたり、反乱を起こしたりするのはおかしいという指摘があるが、私は全くおかしくないと思う。
 人間の攻撃性や暴力性とは、単なる怒りとかそういうものではない、もっと深い部分に潜んでいるだろう。例えば、デイビッドを森の中に放置したモニカ。彼女のとった行動は、行動としては暴力を加えていないが、デイビッドの将来を考えれば破壊するのと同じであり、あるいはデイビッドが受ける精神的衝撃ということも考えれば、かなり暴力的な行為といえるだろう。「恋人に裏切られた」という理由で殺人を犯してしまうのが人間である。すなわち、「愛」のすぐ裏側に、人間の「暴力性」と「攻撃性」は潜んでいる。
 やや話は脱線したが、「愛」をインプットされたロボットであるデイビッドが、マンハッタンの研究所で、自分と全く同じロボットを破壊してしまう。このデイビッドの意外な攻撃性に、当惑した人も多いかもしれないが、「愛」の裏側が「攻撃性」ということを考えると彼の行動も納得いくのではないだろうか(下記の『アルタード・ステーツ』のアイデンティティの問題と合わせて考えると)。
『アメリカン・ビューティ』     食卓をかこむ意味
 アカデミー作品賞を受賞した『アメリカン・ビューティー』、この作品も『グラディエーター』と同様に、スピルバーグ゛の映画会社ドリームワークスの製作である。
 『アメリカン・ビューティー』の食事シーン。極端に間の空いたテーブル、そして会話のない食宅。家族団欒のかけらもそこらはない。
 『AI』の食事シーン。一見すると楽しそうな会話が見られる。しかし、食べ物を食べられないデイビッドは、ただ両親が食事するのを眺めるだけで、極めて不気味である。やはり、ここにも家族団欒はない。
 食卓は家族のあり方、そのものを象徴する。
 『エヴァンゲリオン』の最終回で、シンジを囲み楽しそうに食事をするシーンが登場するのも、シンジが夢見た温かみのある家族という理想像が、ワンシーンで極めてよく象徴されていた。
 食べ物が食べれないロボット、食べたら故障するロボットはおかしい。確かに、現代ですら、ミルク飲み人形が存在するのだから、消化しなくてもとりあえず食べて、それをそのまま排泄する機能をとりつけるのは簡単かもしれない。しかし、ロボットが食事をするという意味は何な

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『AI』の食事シーン

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『アメリカン・ビューティー』の
食事シーン

のか。家族団欒に溶け込む。すなわち、家族の一員になるということで、デイビッドにとっては極めて大きな精神的意味合いを持っていた。「愛」という精神的な交流において、食事というのは、精神的コミュニケーションを深めるという意味で重要だ。しかし、「愛」という感情がインプットされていない、その他のロボットにとっては、食事の機能は、全く無用の長物なのである。
 したがって、「愛」をインプットされたロボットの初期クバージョンであるデイビッドには、食事機能はついていない。私には、全く妥当な描写。非常によく考えられた描写のように思える。
 息子のマーティンが帰ってきた後の食事シーンで、自分だけが物を食べれないデイビッドは、強い疎外感を感じる。そして、無理に食べ物を食べて、故障しそうになる。デイビッドが「人間になりたい」という思いを強めていくのに重要だ。
 やはり、デイビッドが食事機能を持っていないというのは、ロボットの進化過程、そしてストーリーの展開という二つの点から考えて、必然であるように思える。
 ただ、口と胴体の機械部分がそのまま連結しているというのは、設計ミスだと思うが。
『ピノキオ』 スピルバーグの『ピノキオ』好き

 スピルバーグのピノキオ好きは、スピルバーグ映画のファンにとっては周知のことであろう。それが、最もよく現れているのが、『未知との遭遇』の冒頭部のシーンである。主人公のロイは、子供たちと家族だんらんを過ごしている。明日は久しぶりの休みなので、一緒に映画でも見に行こう、そうだディズニーの『ピノキオ』がいい、と子供たちを映画に誘う。しかし、ませた子供たちは全く誘いに乗らず、深夜映画の『十戒』を見ようとするのだ。当然のことながら、ロイはスピルバーグの分身である。子供に連れて行ってあげたいというか、自分が見たい映画が『ピノキオ』なのである。

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 そして、『未知との遭遇 特別編』のラスト・シーンには、「星に願いを」が使われているという念の入れようである。
 彼のピーターパン好きが高じて『フック』を作ってしまったように、ピノキオ好きが高じて作った作品が、『AI』と言えるだろう。
『アンドリューNDR』  ロボットが人間になった映画

 

 『AI』のラストシーン。デイビッドが死んだという解釈もありうるが、「死」によって人間になったという結末では、『アンドリュー』そのままである。

 『AI』よりは、『アンドリュー』は泣ける映画であることは間違いないだろう。まだ未見の人は、ビデオで見よう。樺沢おすすめの一本である。『AI』よりわかりやすいよ。

 そういえば、『フック』でピーターパンを演じていたのが、ロビン・ウィリアムスだった。彼はもともともスピルバーグ作品にゆかりがあったわけだ。


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外見は人間と同じに
なったアンドリュー

2000年の時間経過の意味
 2000年の間、海底で凍結していたデイビッド。しかし、なぜ2000年という時間経過が設定されたのか、未来人が登場すれば1000年でもいいし、5000年でもよかっただろう。この2000年という時間設定は、「Bicentennial man(200年人間)」から来ていると思う。、「Bicentennial man」は、『アンドリューNDR114』の原作である。
 ここでは、とりあえず映画版『アンドリューNDR114』と比較させてもらおう。ロボットが人間になりたいと自発的に願い、長い旅に出て、200年という時間を経て、ようやく人間になる。それは、「死」をかちえたということによって実感される。これが、『アンドリュー』のあらすじだが、それは『AI』のストーリーそのままである。
 『AI』のラストシーン。デイビッドが死んだという解釈もありうるが、「死」によって人間になったという結末では、『アンドリュー』と全く同じ結末となる。
 『アンドリュー』では、ロボットから人間になる期間として、200年が設定されている。ロボット映画の金字塔をめざした『AI』では、『アンドリュー』を超える必要がある。したがって『アンドリュー』以上に壮大な物語にするという意味で、十倍して2000年に設定した可能性がある。
 もう一つは、「ミレニアム」すなわち、聖書的な意味合いを意識したということである。。
 
   
設定は、アイザック・アシモフの「Bicentennial man(200年人間)」から、引っ張っているのではないでしょうか。ですね。私が『AI』を見て最初に思った印象は、「『アンドリューNDR114』のパクリじゃないか」ということです。  『AI』の企画はかなり前からあったようなので、結果として、『アンドリューNDR114』より後の公開になったわけで、パクったわけではないのでしょうが、ロボットが人間になる話である「Bicentennial man」を、キューブリックもスピルバーグも読んでいないということはないはず。「Bicentennial man」よりももっとスケールの大きい話ということで、十倍して2000年にしたのではないでしょうか。  私は、「2000年後」という説明が始めて出た瞬間に、またパクッたなと思いました。  現に『AI』には、代表的なロボット映画『ブレード・ランナー』や『ウエスト・ワールド』へのオマージュが含まれているわけで、代表的ロボット小説である「Bicentennial man」へのオマージュということで、2000年という設定を採用したのではないでしょうか? >3原則をあえて無視している「A.I.」と比較するのは無理があるんじゃないかな? あいかわらず、ロボット三原則にこだわりますね。(笑) 「Bicentennial man」と「AI」は、ロボット自身が自ら人間になりたいという欲求を抱いて、人間になれるように一生懸命努力する物語という点において、プロットが全く同じではないでしょうか。  もちろん、その過程や、それぞれの問題意識みたいなものには、大きな違いがあると思いますが・・・。

『アルタード・ステーツ』 「自我意識とは何か?」

 ホビー博士を演じるウィリアム・ハート。彼の劇場映画の初主演作が『アルタード・ステーツ』(1980年)である。そこで彼が演じるのが、「変容する意識」「意識とは何か?」の研究である。彼の研究は倫理的な限界を超え、自らアイソレーション・タンクにはいり、常識を超えた意識変容体験を経験する。
 「人間ととは何か?」に対する答えとして、「意識」あるいは「自我」、または「自我意識」という答えが考えうる。自分自身の存在について考えるのは、人間くらいなものだ。その点からいうと、マンハッタンのホビー博士の研究室で、自分と全く同じ外見を持つロボットをデイビッドが破壊するシーンは重要になってくる。この時点で、デイビッドはアイデンティティの概念が芽生えていることになるからだ。
 自分という存在は自分だけののもの。唯一のかけがえのないもの。そうした概念があったから、自分と全く同じ外見のロボットと出会ったデイビッ゛トは当惑し、思わぬ攻撃性を出してしまうのである。
 ロボットなのだから自分と同型のロボットがいても全く不思議ではないはずだ。しかし、量産されたデイビッドと同型のロボットが並ぶ様子は非常に異様である。そして、デイビッド自身も当惑する。
 ホビー博士は、デイビッ゛トに自ら判断する自我が芽生えるかどうかを観察していた。「自我」そして「意識」を扱う研究者。研究者の逸脱した倫理という問題を含めて、ウィリアム・ハートは『アルタード・ステーツ』の博士と同じ役回りを演じている。

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ウィリアム・ハート

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『ウエスト・ワールド』
 ロボットの顔部分だけがスポット取り外せるというアイデア。これは、ロボット映画の古典『ウエスト・ワールド』(1973年)にさかのぼれる。
 ロボットたちのアミューズメント・パーク。西部劇の世界などいくつかの架空世界で、ロボットたちとの擬似戦闘を楽しめる。しかし、ロボットたちが人間に反旗を翻し、客である人間に襲い掛かるのだ。
 ロボットの人間に対する反乱。あるいは、自らの意志を持ちロボットが行動を始めるというストーリーの古典である。
 『ウエスト・ワールド』の脚本、そして監督はマイケル・クライトンである。クライトンといえば、『ジュラシック・パーク』の原作者だ。実は、『ジュラシック・パーク』は『ウエスト・ワールド』のロボットを、恐竜に書き換えただけの作品である。同じモチーフが、繰り返されて描かれているのである。

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顔部分が分離するという
アイデア