ソウ完全解読 |
つまり、後の描写のための伏線なのである。説明のシーンである。 その説明について、さらに説明しろというの? もしそれが必要なのだとすれば、その説明に対する説明も必要になってくる。 そして、その説明の説明に対する疑問も、映画で解決しなければいけないのか? 無限に説明の必要性が出てくる。 そんな、バカな話はない。 もう一つの答。これがが重要だ。 「説明されていない」ということにも、理由があるのである。 もし、アマンダと「鍵を飲まされ男」が、知り合いだとすれば。 ノベライゼーションでは、「鍵を飲まされ男」がアマンダのルームメイトとして描かれているようだ。もし、そうだとしたら? このシーンは、ゴードンとアダムのゲームの伏線である。 つまり、アマンダと「鍵を飲まされ男」の関係が、そのままゴードンとアダムの関係に反映される。つまり、二人が知り合いであれば、ゴードンとアダムも知り合いでなくてはいけない。 実際、アダムはゴードンを知ったいた。 アマンダと「鍵を飲まされ男」が知り合いであったとすれば、ゴードンとアダムも知り合いである可能性が容易に連想される。アダムが、ゴードンの盗撮をしていたと暴露するシーンに、何のインパクトも意外性もなくなってしまう。 逆に、もし、アマンダと「鍵を飲まされ男」が、全くの無関係だとすれば・・・。 ゴードンとアダムも、無関係の他人でなくてはいけない。 アダムが、ゴードンの盗撮をしていたという事実と矛盾する。 観客を混乱させるのである。 つまり、アマンダのゲームは、ゴードンのゲームの伏線(説明)である以上、観客を混乱させたり、かく乱させては本末転倒である。 アマンダと「鍵を飲まされ男」が、「関係がある」あるいは「無関係」のどちらであっても、それはゴードンとアダムの微妙な人間関係と相似形にはならない。 つまり、観客を混乱させるだけなのである。 したがって、アマンダと「鍵を飲まされ男」の関係については、「説明しない」ことが、映画をもっともわかりやすくする。だから、説明されていないのである。 何でもかんでも説明してあれば良いというものではない。 また、我々観客も、何でもかんでも説明することを要求してもいけない。 なぜ、そうなっているのか? それを、よく考えるべきだ。 |
まとめて読みたい方は、読みやすいPDF版 |
関連サイト [ブログ シカゴ発 映画の精神医学] [精神医学・心理学本の全て] [激辛カレー批評] [カレー本の全て] [スター・ウォーズ研究誌 ホスプレス] [樺沢紫苑の世界へ] [必ず役に立つ無料レポート] [毎日50人 奇跡のメルマガ読者獲得法] |