[映画の精神医学]



マトリックス・レボルーションズ
 
 およびマトリックス・シリーズ
 
感想と若干の解説

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まずは感想
 「マトリックス・レボルーションズ」によって結末を迎えたマトリックス3部作。「リローデッド」と異なり、分かりやすいストーリー展開で特に詳しく解説する余地もないと考えていた。しかしながら、「レボルーションズをどう思う?」という質問を多く受ける。実際、マトリックス3部作をどのような作品ととらえてよいのか迷っている人も多いようだ。
 解読というほどてはないが、感想と若干のコメントを書き記しておこう。

 「レボルーションズ」を見る前は、「リローデッド」のような哲学的、あるいは禅問答のような複雑な話、あるいは頭をかかえるようなラストになりはしないかと心配したが、実際の「レボルーションズ」は、単純な娯楽映画としての体裁で撮まとめられていて、とりあえずは安心した。しかしながら、ストーリーどうこう言う前に、映像的なインパクト、映像的な斬新さに欠けるのは残念であった。
 「マトリックス」1作目は、CGではない映像手法にこだわり、新しい技術自体を開発した点が、多くの観客の驚きにつながったわけだが、3作目になるに従いCGに頼る映像が多くなっている。CG乱発映画ではないという「マトリックス」の最大の魅力が、消失しているのである。
 ストーリー面で言えば、「リローデッド」の時に既に指摘したが、「リローデッド」と「レボルーションズ」合わせて一本分の映画のボリュームしかない。にもかかわらず、そこから無理やり2本の映画を作ってしまった。一作目とくらべ、「リローデッド」と「レボルーションズ」の展開が遅いのは当然であり、そこが多くの観客を掴みきれなかった点ではないだうか。
 3作目としてのまとまり。オチのつけ方。
 スミスが倒されることと、ネオ、トリニティが死ぬことは予想の範囲。キリスト教的解釈からすれば、ネオが救世主となるために必要な条件は、ネオの犠牲ということ。すなわちネオの死は彼が救世主となるためには必須なのである。ここまで、引っ張っておいて「ネオは救世主じゃありませんでした」という帰結は考えられないので、ネオの犠牲による世界の救済は、予想通りのラストである。
 ラストが人間と機械との共存に行き着くことも当然であろう。ただ、機械につながれていた人間が解放されるところまで、いきなり行くとは思わなかったが・・・。
 娯楽映画としてよくできているし、それなりのテーマ的な深さも備えている。私の希望としては、2、3作において映像的な驚きが、ついに1作目を越えられなかった点が、最大の心残りである。
 これがウォシャウスキー兄弟の限界か・・・。しかしながら、短期間での2、3作の撮影。次作への準備期間がほとんどなかったことを考えれば、新しい映像技術を考案しろというのも無理な注文ではある。ウォシャウスキー兄弟にとって、次回作が本当の勝負作になるだろう。

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キャプテン・ミフネの活躍

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決着の時

 

マトリックスのテーマとは何だったか?
 私の友人の一人が尋ねた。
「一体マトリックスでは、何を言いたかったの?」
 マトリックス3部作に描かれていたもの。私の中では非常にわかりやすく明快に伝わったのだが、混乱している人も少なくないようなので、少し整理してみた。
1 信じることの重要性
 もず最も直接的に伝わってくるテーマ、それは「信じることの大切さ」ということだろう。形のないものを信じなさい。信じ続ければ必ず報われる。「愛」もそうだ。自分の「運命」。自分の「将来」「未来」。あるいは「信仰」。
 モーフィアスはネオが救世主であることを信じ、実際にネオは世界に平和をもたらす。 
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信じれば不可能なことはない
 ネオは自分の選択が正しいことを信じ、自分自身を信じた。
 トリニティはネオを、そしてネオはトリニティを信じる(愛)。
 ナイオビは、通行不可能の難路を、自らの運転技術を信じ、見事に突破する。
 ジーはリンクとの再開を信じ戦い続け。ついに再開を果たす。
 いずれも、信じる者たちは、自分の信じた運命を実現している。
 あるいは、マトリックス世界では、自分の想像がそのまま現実化する。ビルを飛び越せると100%信じれば、それが現実化するのだ。

2 第3の選択
 「レボルーションズ」冒頭部のトレインマンのエピソード。現実とマトリックスとの間の地下鉄駅にネオが閉じこめられてしまい、そのネオをどうやって救出するか。この話が妙に長く感じられるが、なぜこのエピソードにこれほどまでの時間が割かれているのか。それはテーマの一つににつながる重要な描写ということを意味する。
 マトリックス・シリーズでは、常に二者択一が迫られた。一作目では、赤のカプセルと青のカプセル。「リローデッド」では、左のドアと右のドア。ネオはどちらかを選択する。しかし、本当の答えは、別なところにあったのではないのか?
 ネオとスミスの対立図式。ネオがプラスとすると、スミスはマイナス。あるいは陰と陽。一見相反する存在であるが、それは相補的な関係にある。プラスの物質だけでは世界が成立しないように、「リボルーションズ」におけるリボルーションは、ネオとスミスの共同作用によって完遂した。ネオとスミスが戦い、ネオが勝ち、スミスが負けたということではない。
 弁証法的に解釈すれば、正(テーゼ)であるネオに対し、反(アンチテーゼ)であるスミス。二人が激突し、同一化したところに、新しい世界は切り開かれた。機械と人間との共存する新世界の実現が合(ジンテーゼ)である。対立構造を超えたところに、答えが存在するということ・・・。
 あるいは、アリストテレスの「中庸」を思い出す。

 現実世界とマトリックス世界の中間、地下鉄駅というのも同じこと。「現実世界」と「マトリックス世界」しかないと思っていた我々に提示される「第三の世界」「中間の世界」。それは、第3の答えなのである。

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ネオ対スミス

 「マトリックス」は我々に選択すること、決断することの重要性を突きつけながらも、既存の二者択一的な選択を超えた、第三の選択の可能性の大切さを描いている。

 第三の選択は言い換えれば、勧善懲悪主義の否定でもある。ハリウッド映画は、未だに勧善懲悪に傾倒している。マトリックス・シリーズの良いところは、善とか悪の区分を問題にしていない。一応形式上は「人間=善、機械=悪」の図式はあるが、人間が機械を打ち負かすという帰結にはなっていない。「ネオ=善、スミス=悪」でもないし、悪役的に見えたアーキテクトは、ネオとの契約を厳密に遵守する。
ちょっとした発見
 ネオが閉じ込められた、現実とマトリックスの中間にあるという地下鉄の駅。その駅名は「MOBIL AVE」。これが、「MOBILE」ならば、「移動可能な」という形容詞となって、この駅から脱出して、移動したいと願うネオの気持ちに対するアイロニーともとらえられる。しかし、実際には「E」がついておらず、意味をなさない単語になっている。「E」がついていないということで、「移動可能」という意味にはならない。「移動不能」を暗に意味したのか?
 意図的に「E」を落としていることは明らか。そこには、何らかの意味があるはず。そこでアナグラムである。「MOBIL」の各文字を並べ替えると、「LIMBO」になる。リンボーとは、洗礼を受けずに死んだ人が住む地獄と天国の間にある場所のことだ。あるいは、「拘禁、監獄」といった意味もあり、脱出不能となたネオの状況を端的に示している。

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「MOBIL AVE」駅

 

3 人間対機械
 機械につながれて発電の材料にされている人間。これは極端な話だが、パソコンや自動車などの電気製品や機械類。これらの機械なしでは、我々の生活は維持できない。我々は機械を使っているようで、機械なしでは生活できないところまで依存してしまっている。すなわち機械に使われているとすら、言える。 
 「機械対人間」のテーマは、SF映画としては最もよくあるもの。「2001年宇宙の旅」「エイリアン」「ブレード・ランナー」「ターミネーター」いずれも、人間対機械のテーマが含まれる。

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機械に対抗するのための
機械

 マトリックス・シリーズにおいて、人間は発電の材料。人間は生体電流の供給者であり、機械に使われる存在。モーフィアスたちザイオンの人々は、機械に対して戦いに挑むのだが、そうした彼らもホバークラフトやモビルスーツ(?)などの機械を使わずには戦うことすら出来ないし、ザイオンという都市自体が機械に頼らずには電力の供給ができないという矛盾を抱える。
 映画は、人間と機械の共存、「平和」の実現によって幕を閉じる。機械と人間は敵対すべきものではなく、共存していくへきであるという、結論に至る。
 映画自体としては、人間対機械という対立図式を提示しながらも、人間の人間らしい部分(機械にはできない側面)、自分で決断できる、人を愛することが出来る、人を信じることが出来るという(2)(3)のテーマにむしろスポットが当てられている。機械に使われる生活をしないで、もっと人間らしい部分を大切にして生きようという呼びかけと、私はとらえた。

 

4 聖書物語の再現
 ネオはスミスを駆逐しシステムクラッシュを回避する代わりに、人間と機械との「平和」を要求する。アーキテクトは、その契約をのむ。アーキテクトはこの世界の造物主であり、「神」である。この瞬間に、人類と神との間での新しい契約が成立する。言いかえれば、マトリックス・シリーズは、新「新約聖書」ということか・・・。
 ご存知のように、新約聖書、旧約聖書の「約」とは、神との契約という意味。旧約とは、モーゼの「十戒」を中心とした契約。新約とはイエスを信じることによって救われるという新しい契約のことである。
 マトリックス世界で、ネオはスミスとともに消滅する。機械都市でのネオの死体はも十字架のように持ち上げられ、賛美歌のような音楽がかかる。キリストの磔刑。予言されたとおり、ネオは救世主であった。ネオは人間の犠牲となり、「神」との契約によって新しい世界が始まったのだ。
 聖書になぞらえたストーリー展開というのは、欧米ではありふれたもの。テーマというよりも、モチーフ(題材)の一つと言った方が、正しいのかもしれない。

 上述のように、ネオを救世主に見立てて、聖書をなぞったストーリー展開をするが、これは我々の生活次元とは別のヒーロー譚であることを意味しない。ネオの名前は「アンダーソン」である。そして、ネオと対決する「スミス」。スミスもアンダーソンも、アメリカでは、最もありふれた名前と言える。つまり、社会にリボルーションを起こすのは、特定の選ばれし者ではなく、普通のありふれた一般人であるということだ。実際、普通の人たちはスミスに同化されてはいたが、スミス対ネオの一騎打ちを観戦していた。一人一人の人間が、リボルーションを起こす、その力を秘めているのだという、ポジティブなメッセージを読み取れる。 
 
5 生きているとは何か?
 どこまでが現実で、どこまてが仮想現実なのか? 「レボルーションズ」では、仮想現実が現実を侵食し始める。
 現実の認識。自分とは誰か。哲学的な問題提起にも読めるが、簡単に言い換えれば「自分は何のために生きているのか? 何をするためにどこの世界に生きているのか?」という問いかけに、言い換えることが出来よう。
 「生きているってどういうこと?」あるいは、「今のあなたは生きていると言えますか?」 マトリックス・シリーズで、我々に繰り返し問いかけられる質問である。  
 機械都市で機械につながれて夢を見続ける人間たち。これで、生きていると言えるのか?
 あるいは、ザイオンという洞窟の都市の中に閉じ込められて、本当に生きているといえるのか?
 マトリックス世界の中で、ネットジャンキーとなり、すさんだ生活を送っていたネオことアンダーソン。彼は生きていると言えたのか? もし生きていたとするなら、その人生の目的は?
 アンダーソンは、モーフィアスからお前は世界を救う救世主かもしれないと告げられる。召命である。自分が何のために生きているのか。その存在価値、生きている意味を知れということ。
 ネオは、モーフィアスを介して、自分の生きている世界、生きている意味、そして自分自身のかかえる運命を認識する。そして、それを信じて、選択し、行動に移す。
 我々はいかに生きるべきか? その答えは「信じるとおり生きろ」ということ。
 「愛」は一つの答えであるし、何かに「使命」を見出すこともできよう。
 我々人間一人一人は、ネオほど崇高ではないにしろ、何かの生きる目的を持っているはずだが、果たしてあなたはそれに気づいていますか? というのが、映画の問いかけなのだろう。

 

 こうしてテーマを列挙してみると、マトリックス・シリーズは、一見日常とはかけ離れた世界を舞台にしながら、我々が毎日生きていく上で身近なテーマを扱っていた事に気づく。
 それも非常にポジティブな応援メッセージである。
 我々の住む世界を見つめ直せ。そして、自分の決断を信じて徹底的に行動せよ。さすれば、未来は切り開かれる。
 「レボルーション」には娯楽映画としての爽快感は欠けるのだが、前作を通して描かれる生きることに対するポジティブな応援メッセージに、心暖まるものを感じる。

 

シカゴ発 映画の精神医学
アメリカ、シカゴ在住の精神科医が、最新ハリウッド映画を精神医学、心理学的に徹底解読。心の癒しに役立つ知識と情報を提供ています。
 人種、民族、宗教などアメリカ文化を様々な角度から考察。
 2004年まぐまぐメルマガ大賞、新人賞、総合3位受賞。
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