映画の精神医学


 マトリックス

 ドラマツルギーは死んだ。
 今、ハリウッドで大きな変革が起きつつある。『スター・ウォーズ ファントム・メナス』と『マトリックス』が、ほぼ同時期に公開された意味合いは大きい。この二作品は、非常によく似ているのだが、その最大の共通性は、「ドラマツルギーの破壊」ということであろう。起承転結、物語を筋道立てて説明しながら進行していくというごく当たり前のドラマツルギーが、完全に無視されている。「転転転決」とでも言おうか。ファースト・シーンから、映画は全速力で疾走する。映像のシャワー、イメージによる脳髄の麻痺。説明じみたことは、後から補足的に付け加えられていくだけ。それも断片的に。したがって、ジグソー・パズルを組み立てるように、最後になるまで全体像が見えない。いや、ストーリーというものは、もはや不要なのかもしれない。各シーンの壮絶な映像、イメージそのものがメイン・ディッシュであり、ストーリーは調味料、あくまでも補足に過ぎない。しかしながら、最後まで見ると、単に断片の補足的説明が、壮大な世界を作り上げていることに驚かされるのである。
 『スター・ウォーズ ファントム・メナス』は、アメリカにおける新たな神話を目指した。『マトリックス』も神話をもとに物語が組まれたようだが、神話というよりもやはり聖書のイメージが圧倒的である。やはり、アメリカ映画は聖書なしで理解することはできない。
 予言された救世主とおぼしき男ネオ(キアヌ・リーブス)。人々は彼を救世主と信じながら、半信半疑の部分を捨てきれない。ネオ本人も、自らが救世主かどうかと悩む。イエス・キリストの物語、そのものである。『マトリックス』に流れる思想、それは「信ずることが現実化する」であり、信ず者は救われるキリスト教思想の色彩が強い。ネオは自己の犠牲を怖れず、命をかけてモーフィアス救出に向かう。エージェントの銃撃を受けて、ネオの心臓は止まる。しかし、見事に復活を果たす。「復活」は救世主の必須用件である。復活した後のネオが無敵になったのも当然であり、一旦死んだネオが復活するのは、聖書的に見ると、もはやお約束と言ってよいだろう。仲間を裏切って、モーファイスをエージェントに売り渡す男は、「ユダ」ということになろうか。
 

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カッコいいキアヌ・リーブス

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独特の映像世界が
構築されている


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ネオを信じるトリニティ
涙涙のシーンです

 『マトリックス』が作り出す独特の映像世界。『エイリアン』、『ブレード・ランナー』と並べても遜色のない、独自の世界がそこに構築されている。しかし、それは単なる絵空事ではすまされない。現実社会は、空想世界であり虚構に過ぎないという世界観は、まんざら嘘とも言いがたい。現代社会は、テレビや新聞が作り上げた一種の空想世界のようなものである。そして実際、現代の子供たちは、日常世界に全くリアリティを感じられないようになっている。現実と虚構の線引きは非常に簡単なようで、極めて困難であることが『マトリックス』では指摘されている。
 しかし『マトリックス』は、我々に救済を与えている。「気づくこと」の重要性、そして信じさえすればそれが現実化するという「信じること」の大切さだ。マーフィーの法則のような教訓だが、虚構の中に埋もれ何を信じていいかわからない我々にとって、この教訓は重い。劇中においても、トリニティはネオが救世主であることを疑うことなく心から信じ、ネオと一緒に命がけの危険な救出へと向かう。このトリニティの信じること(=愛)には、心をうたれる。

  

参考資料 『マトリックス』と『ファントム・メナス』の共通性

『マトリックス』 『ファントム・メナス』
ドラマツルキーの破壊 ドラマツルキーの破壊
主人公ネオは救世主 主人公アナキンは救世主
ネオを迎えに来るモーファイス アナキンを迎えに来るクワイ=ガン
聖書を題材 聖書を題材
信じることの重要性 信じることの重要性
(『帝国の逆襲』のダゴバの修行シーン)
ホバー・クラフトのコクピット グンガン・サブのコクピット

 


 完全ネタばれです。映画未見の方は、決して読まないでください。

 シックス・センス
 この映画はホラー映画、あるいはサスペンス映画として見るのではなく、家族愛の映画として見るべきであろう。詳しく言うならば、崩壊した家族の回復過程を描いた作品である。 
 クロウ(ブルース・ウィリス)と妻との夫婦関係の回復、コール少年と母親との間の親子関係の回復は、言うまでもない。そして、コールの母親と祖母の関係回復。さらに、少年の前に現れる幽霊は、みな家族の問題を抱える。母親に洗剤を飲まされて殺された少女。暴力夫に虐待され続けた女。崩壊した家族の中で苦悶する幽霊たち。それは、虚像なのか現実なのか。
 目に目えない者が見える感覚、それがシックス・センス(第六感)である。それは第一義的には、幽霊を見る能力であるが、実際は崩壊した家族関係を見る目ということになろうか。すなわち、現代社会に増えつづけている崩壊した家族、すなわち自閉症の子供、家庭内暴力、希薄な夫婦関係、親子関係。そうした現実をきちんと見つめなさいというメッセージと読める。
 テレビのカゼ薬の宣伝で、カゼをひいた子供を心から心配する両親という理想的な家族が登場するが、これは現実の破綻した家族とのコントラストによって、家族の崩壊を強調するという表現であろう。
 では、家族の崩壊を回復するためには、どうしたらよいのか。それは、彼らが言わんとすることに耳を傾けることである。コール少年は、霊の言葉を無視するのではなく、霊を直視し霊の言葉に耳を傾けた時に、初めて心が安らかになり、霊を救うだけでなく自らも救われた。クロウは自分の妻とのコミュニケーション不足に悩み、コール少年は母親が自分の言葉に耳を傾けてくれないことに悩む。コミュニケーションの不全が、人々を孤独にするのである。学校で最初に演じられた劇(「ジャングル・ブック」か「ターザン」?)で、「動物と話ができる男がいる」というセリフが登場する。これは、「霊と話ができる少年がいる」という意味を重ねているだけではなく、動物と人間とのコミュニケーションが大切であるということで、コミュニケーションの重要性を訴えているだろう。
 クロウが霊として現世にい残った理由は何か。それは、妻との関係回復が果たされていなかったこと以外にもう一つある。それは彼を殺した青年ビンセント・グレイを助けるということである。彼は、ビンセントを救えなかったということに後悔の念を抱いていた。だからこそ、ビンセントの治療メモを見直したり、ビンセントの治療場面のテープを聞き返していた。何とかして彼を治療してあげたかったという思いからである。ビンセントを治療できなかったクロウは、親が離婚した家庭で、神経過敏で、情緒障害であるビンセントと極めて似通った環境、似通った状態のコール少年を治療するのである。そこには必然性がある。
 そして、クロウがコール少年に話すたとえ話の中で「今度こそ、その子を助けよう。そうすれば前の子も救われる」というセリフがある。このセリフは、コールが救われればビンセントも救われるという意味であろう。ラスト・シーンは、クロウが妻との関係を回復するシーン、そしてその前のシーンがコールの親子関係の回復シーンである。コールが救われた、それはビンセントも救われたということを意味する。ビンセントの救いと、妻との関係を回復したクロウは、現世への名残はなくなった。ラスト・カットはクロウの昇天を意味するのだろう。
 映画の始まる前に、この映画には「ある秘密」があります、という仰々しいクレジットが出る。このクレジットが出た瞬間に、「まさかウィリスが幽霊じゃないだろうな」と全てを察知してしまった私には、シックス・センスがあるのだろうか。ありがた迷惑なクレジットでてあるが、このオチは『シックス・センス』にとって本質的なものではない。『シックス・センス』の最大の見所は、家族の回復とコミュニケーションの重要性というテーマにある。『シックス・センス』、すなわち第六感。第六感とは、現代人が忘れつつある「人を思いやる感覚」のことではないのか。

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シカゴ発 映画の精神医学
アメリカ、シカゴ在住の精神科医が、最新ハリウッド映画を精神医学、心理学的に徹底解読。心の癒しに役立つ知識と情報を提供ています。
 人種、民族、宗教などアメリカ文化を様々な角度から考察。
 2004年まぐまぐメルマガ大賞、新人賞、総合3位受賞。
(マガジンID:0000136378)

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