[映画の精神医学]


 完全ネタばれです。映画未見の方は、決して読まないでください。

  ファイト・クラブ      fightclub_small.jpg (9255 バイト)

 カタルシス。なんという爽快感だろう。これほど、スッキリとした爽快感を味わえる映画を久々に見た。しかし、この映画を見て爽快になれるというのは、相当にヤバイように思える。エドワード・ノートン演じる主人公並にヤバイ。
 生きている実感がない。何のために生きているかわからない。毎日繰り返される日常生活の中で、誰もがこうした感覚に支配されるのではないか。この現代社会において、生き生きと生活している人が一体どれだけいるのか。
 高級コンドミニアムに、高価な北欧家具を買い揃え、高級スーツを着こなす主人公ジ。物質的には完全に満たされているはずの彼だが、その心全く満たされることはなかった。

 殴り合うことで、初めて生きていると実感する。骨と骨がぶつかりあい、血が流れて、歯が折れる。耐えがたい痛み。その瞬間に、初めて生きていることが分かる。普通の人は、実際に殴り合うことはないが、K1やプロレスを見て、血の高ぶりを感じたことがある人であれば、主人公の感覚に共感するかもしれない。
 主人公と対照的な男タイラー。見事な筋肉質で喧嘩に強い。リーダー・シップがあり、クラブの仲間の信頼を集める。そして、精力絶倫。タイラーは、自分の持っていないものを全て持っている。彼の憧れの存在である。それが、ラストの種明かしへの伏線となる。
 
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   主人公
 無気力で生きる実感を感じない主人公。その彼がファイト・クラブを通じて、男らしい生き生きとした目の輝くを取り戻す。
 この無気力男に妙に感情移入できてしまう。現代人のほとんどは、彼のように処理できないフラストレーションに悩まされているのではないか。

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 タイラー・ダーデン
 主人公が持たないものの全てを持っているダーデン。なぜ、彼が全てを持ち合わせていたのか。それが、多重人格化する大きな理由として、重要になってくる。


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 マーラ・シンガー
 美人ではないが、色気にあふれている。もし、彼女が単なる美人であれば、二人でビルの崩壊を眺めるラストシーンは色あせたものになっていただろう。彼女の持つ狂気が、主人公の狂気に拍車をかける。

 
  
 自分自身を何とか変えたいという強い願望。しかし、したくてもできない、真面目で保守的な自分。二つの自分が葛藤し、大抵の人は保守的な人格が、破天荒で自由な人格を抑えつけながら、平凡な日常生活を送っているのだろう。
 しかし、この主人公は違った。何とか生きているという実感が欲しいという強い思いが、タイラーというもう一人の人格を生み出してしまったのだ。前半の、睾丸癌患者の会へ通う部分は、単なる笑いではなく、平凡な日常化から脱出したいというジャックの強い渇望が極端な形で現れていている。ある種、この時点で病的であるわけだが、「生きがい」をこれほど強く望んでいた彼だからこそ、タイラーというもう一人の人格が生まれたことをよく説明している。

 ほとんどの多重人格もの映画は、二つの人格が単純化されてしまっており、おもしろさをそぐ原因となっている。ジャックとタイラーも、実は非常に単純化されたキャラクターなのだが、この二人の人格は対立する人格でありながら、二人の間に生まれる共感なり、友情が、同一人格である証拠なのである。ファイト・クラブに通うようになったジャックは、うつろなぼんやりした目から、輝きのある目へと変化していく。そして、その輝きのある目は、主人公の目の輝きと同じなのである。映画を見ながら、「この二人の目の輝きは全く同じだな」という考えがふと脳裏をよぎったが、二人が同じ人間なのだから、似ていて当然なのである。その辺の、二人の共感、友情、羨望、嫉妬という微妙な人間関係の描きかたが実にうまい。
 メナヘイム(騒乱)計画をたくらみ、テロリストへと変貌していくタイラー。このくだりも、何か説得力があるし、共感がもててしまう。反社会性や破壊欲というのは、誰もが持っていながら抑圧しているのだろうか。人を殴る、あるいは人に殴られるという行為を通して、発散され始めた人間の破壊欲は、ダムが決壊するかのように一気に拡大していくのである。テロリズム、殺人をしようとするタイラーを見て、主人公は真実に気づき、もう一人の自分タイラーと対決しようとする。そして、自分の顎を撃ちぬくことで、二つの人格は統合する。
 しかし、真のドンデン返しはこの後である。マーラに向かって、「これからはうまくいくよ」と微笑む主人公。そして、時限爆弾は爆発して、高層ビルが崩れ落ちる。その光景を、眺める主人公とマーラ。彼は、マーラの肩に手を回す。彼の顔は映らない。後姿しか映らないが、どう見ても二人の後姿は幸せそうである。
 多重人格の主人公とタイラーが対決し、主人公はタイラーを打ち負かした。それは、善と悪の対決によって、善が勝利するという単純な図式ではない。主人公が、タイラーを打ち負かしたのではなく、主人公とタイラーが合体して、もう一つの人格になった、新しい自分が誕生したということではないのか。もとの小心者の主人公であれば、瓦解するビル群を平然と眺めることは出来なかったであろう。

 完全にやられた、という感じである。これこそがドンデン返しというべきか。
 瓦解するビルをマーラとともに眺める主人公は、まさに生き生きとした実感と至福を味わっているであろう。テロは実行されビルは破壊されているかもしれないが、主人公の個人レベルの物語としてみると、「生きている実感を味わうことが出来た」という意味で最高のハッピーエンドになっている。なんという皮肉。『ニューヨーク1997』のシニカルなラスト・シーンを思い出してしまったが、『ファイト・クラブ』のラストは、皮肉ではなく、やはり爽快さが漂っているところ凄い。

  『ローズマリーの赤ちゃん』に匹敵する悪魔的で意外なラスト・シーンである。しかし、一番恐ろしいのは、このラスト・シーンに完全に共感してしまっている自分であり、主人公同様に、もう一人の自分に生まれ変わったような錯覚を味わうのだ。

 

補足 (99年12月19日、12月23日)
 主人公の名前をジャック・ナレターとして紹介していましたが、これは誤りでした。

いつくかのホーム・ページでは、主人公の名前をジャック・ナレーター、あるいはジャクとして紹介しているため、そのまま引用してしまいましたが、それは誤りでした。
 ジャックは、廃屋で見つけた本に書かれていた一節「俺はジャックのOOだ」というセリフを、主人公が引用しているために生じた誤解である。
 ナレーターというのは、語り手、ナレーションを入れる人という意味のナレーターです。字幕には、「Narrator      Edward Norton」と出るが、これは単に劇中の説明(独白)をエドワード・ノートンが担当しているという意味である。 
 原作を読んでみて始めて気づいたが、結局主人公は「僕(I)」として登場しており、名前は出てこない。この単純な事実を気づかせないほど、監督フィンチャーの語り口はうまい。この主人公の名前が出てこないというのは、謎解きにおいて非常に重要な伏線となっていたのだ。なぜなら、タイラーと「僕」が違う名前を持っていたとしたら、二人が多重人格という話が成立しなくなる。主人公は名前をもたない。しかし、実際は持っていたのだろう。タイラー・ダーデンという名前を。

 そして、「僕」が名前を持たないもう一つの理由。それはテーマの普遍化である。この物語は、映画の架空の登場人物の物語ではなく、「僕」、すなわち観客自身の物語である。フラスト・レーションを抱え、生きがいを感じない我々一人一人が、このエドワード・ノートン演じる「僕」に投射されるのだ。

 

追加考察 ラスト・シーンについて(2000年1月2日更新)
 『ファイト・クラブ』の一番最後。主人公とマーラは、二人並んで、高層ビルが崩壊していくのを、至福の境地で眺める。しかし、次の瞬間、画面は乱れる。そして、エンド・クレジットとなる。
 この画面の乱れは一体何だ。
 実際に映画を見ているときは、興奮してそんな些細なことに気を回す余地はないが、この最後の画面の乱れは、些細なことではない。
 主人公とマーラがいたビルには、他のビルと同じように爆弾が仕掛けられていた。地下の車の中にあった爆弾は、解除したように見えたが、本当に解除していたか。あるいは、他には爆弾はなかったのか。このラストの画面の乱れは、爆弾が爆発し、主人公がいたビルもまた崩壊したという意味であろう。それ意外に何らかの説明がつくだろうか。
 映画『ファイト・クラブ』は、チャック・パラニュークの原作小説にかなり忠実に作られている。原作の最後を読むと、ビルに仕掛けた爆弾は爆発しないが、顔を打ち抜いたことが致命傷で主人公が死んだような記述になっている。主人公がはっきりと死んだとは書いていないが、「天国ではぼくは眠れる」のような、死んだことを暗示するような記述がいくつかある。マーラは死んでいないようであるが。
 映画のラストは、主人公とマーラの死で終わっていると理解すべきであろう。そして、この結末は、映画をより一層感銘深いものにしている。
 生きがいを感じることがなかった主人公とマーラ。その二人が初めて生きているという実感を感じ、初めて幸福というものを味わった。しかし、その幸福は、わすが数秒しか続かなかった。数秒しか続かなくとも、そして主人公が死んでしまったとしても、この数秒に主人公に生の輝きを見出し、我々観客もまた至福の瞬間を味わうのだ。映画史上最も悲惨なハッピー・エンドが、ここに成立している。
 ある種自虐的な『ファイト・クラブ』のラストとして、主人公の死ほど、ふさわしい終わり方はない。

追加考察 暴力と破壊衝動
(2000年1月2日更新)
  『ファイト・クラブ』の批評として、暴力的という言葉が使われているのを見かけるが、これはかなり見当違いの批評である。『ファィト・クラブ』のファイト・シーンを見て、暴力的と考えるのは、あまりにも浅薄であり、ほとんど『ファイト・クラブ』の本質を見ていないと言えるだろう。
 確かに、骨と骨のぶつかりあう音が聞こえてくるファイト・シーンはリアルで、見ていて「痛さ」が伝わってくる。しかし、これは暴力的ではない。暴力とは、相手に対して乱暴をふるうことである。『ファィト・クラブ』に参加するものは、なぜそこに「生」を感じるのか。それは、対戦相手を思いっきり殴ることによって爽快感を感じるからではない。むしろ、彼らは殴られることに快感を感じている。その証拠として、バーから出てきたタイラーが主人公に言った言葉は、「俺を一発殴ってくれ」である。「俺に一発殴らせてくれ」ではないのである。そして、苛性ソーダで、手の甲を焼くシーンもそうである。タイラーは言う。「苦痛に意識を戻せ」、苦痛を味わうことの重要性が゛示唆される。ファイト・クラブでファイトした翌日目にあざをつくって、口から出血させながらも彼らは恍惚とした表情を浮かべている。痛みを感じることで、彼らは初めて生きているという実感を味わった。
 この心性を「暴力的」と評するのは、あまりに見当違いである。自虐的というのも、少し違う。『ファイト・クラブ』を通して流れている心性は「破壊衝動」である。「破壊衝動」が自分に向けば、殴られ痛みを感じる快感ということになる。そして、それが外に向けば殴る快感ということになる。そして、それが社会に向けば、爆弾でビルを破壊するというテロ行為に結びつく。殴り合いから始まったファイト・クラブがテロ行為へと発展していく過程に、常識ある観客は飛躍を感じるかもしれないが、「破壊衝動」というキーワードで考えると、殴り合いも、テロ行為も全く次元で語れる。その大きさと方向がどこに向くかという違いだけである。
 この「破壊衝動」というところに、目をつけたのは非常にタイムリーだと思える。いわゆる「キレル」というのは、自分の「破壊衝動がコントロールできなくなった状態であり、そうした状態で、京都の小学生殺人事件、あるいは神戸の少年Aの事件、あるいはアメリカのトレンチ・コート・マフィアによる銃乱射事件は起きているのではないか。
 「殺人は、犯罪です」「このような事件は、二度と起きて欲しくない」マスコミはそんなくだらないコメントを百回繰り返す前に、犯罪者の「破壊衝動」を理解すべきであろう。
 少年Aの事件を見ると特に強く感じられるが、マスコミはこうした反社会的行為を行った者を、極めて特殊な存在として扱う。しかし、果たして犯罪者は特殊な存在であろうか。抑圧された現代社会において、多くの人々は「破壊衝動」を昇華できずにためこんでいるのではないか。例えば、缶コーヒー「BOSS」のテレビCMに、ささやかな反社会性の発散をみてとることができる。こうしたCMが人気を得ることが、間接的証明となる。

 ほとんどの人間は、爆発寸前の爆弾を抱えながら、たまたま爆発しないですんでいる。ほとんどの人間が犯罪者の一歩手前のラインで踏みとどまっているだけ。私はそんな印象を感じる。
 そうした意味で、「破壊衝動」の存在を、誰もが有する心性であると相対化した『ファイト・クラブ』は、凄いと思う。まず、そうした心性があることを認めないと、現象を分析することも、対策を講じることも不可能であろう。

 

小説版 『ファイト・クラブ』の感想(2000年1月5日更新)
 チャック・パラニューク著の『ファトイ・クラブ』の原作本(ハヤカワ文庫)を読んだ。映画も凄いが、原作も凄い。映画はぶっ飛んでいたが、小説はもっとぶっ飛んでいる。何しろ、一行ごとに場面や、時系列が変わってしまう。一歩間違うと滅裂だが、ぎりぎりのところで、微妙な調和を生んでいる。全く新しい小説の形を提示している。
 小説を読んで、映画を考えると、よくこのぶっ飛び小説を、こんなにも理路整然とした映画に作り変えたものだ、と関心する。それでいて、小説にかなり忠実で、ほとんどエピソードを、漏らさず映画に取り込んでいる。監督としてのフィンチャーの腕前に、改めて関心する。
 タイラーが主人公と同じカバンを持っていたことは、小説には書かれていない。しかし、この辺の映画ならではの補足説明も実に、良い味わいにつながっているように思える。フィンチャー最高である。
 一方、タイラーが主人公の別人格というオチは、原作ではかなりわかりやすく提示されている。「ぼくがこれを知っているのは、タイラーがこれを知っているからだ。」といった表現が、最初から最後まで何度もくり返される。多重人格オチの伏線が、いたるところに何度も巧妙にはられる。映画とはまた違った味わいがある。
 見てから読むか、読んでから見るか。『ファイト・クラブ』の原作は、映画そのものを面白くしてくれるだろう。

 

シカゴ発 映画の精神医学
アメリカ、シカゴ在住の精神科医が、最新ハリウッド映画を精神医学、心理学的に徹底解読。心の癒しに役立つ知識と情報を提供ています。
 人種、民族、宗教などアメリカ文化を様々な角度から考察。
 2004年まぐまぐメルマガ大賞、新人賞、総合3位受賞。
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