[映画の精神医学]

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御法度

 感想編
 「死に至る病」にかかった男、あるいは「死にとりつかれた男」、惣三郎。しょせん同性愛映画だろうと、全く期待ないで見た『御法度』であったが、想像もしないような凄い映画に仕上がっていた。
 金銭的に不自由のない商人の家に生まれながら、惣三郎が新撰組に入局したのは、生きている感じがしない、何のために生きているかわからないといった不全からではなかったか。入局前に、惣三郎が人を斬った経験があったのか、「生と死」のはざ間で生きる世界に、惣三郎は魅了される。
 初めての斬首を平然と成し遂げる惣三郎。動揺も喜びも全く表情に出さないが、この瞬間、惣三郎は生きている実感を味わっただろう。それは彼にとって、快楽だったかもしれない。
 田代によって衆道の喜びを教えられた惣三郎にとって、男同士のちぎりはとりあえずの喜びであったかもしれないが、それは真の喜びではなかった。そして、真の快楽をも味わっていなかったのではないか。
 人を斬ること、あるいは人に斬られるかもしれない瞬間の魅力に惣三郎はとりつかれる。そして、それは自分とちぎった人間を斬る瞬間に、更なる高揚を与えたのではないか。
 惣三郎は、単なる無表情で、自分の意志すらもたないように思われるが、この映画で描かれる全てが惣三郎のシナリオ通りに進んでいたようにも思える。そして、無表情な顔に、狂気の気配が漂う。
 「生か死か」いや、『御法度』においては「性か死か」の世界が描かれる。惣三郎は「性」の喜びでは満たされず、「死」の喜びに取り付かれるのだ。ラストシーンの解釈(土方が用事を思い出したと戻る理由)は、いくつかあるだろうが、「死」にとりつかれた男、惣三郎にとって真の快楽を味わう瞬間が訪れたのではないか。惣三郎の「願」がかなった瞬間である。
 『御法度』にはいくつかの謎が隠されている。謎解きに興じるのも楽しいが、謎解きを取りあえず保留した上で、率直な感想をまとめてみた。『御法度』は鏡のような映画である。見る観客によって、そこに見えるものが異なって見える。ダブルミーニングを意図して演出しているのだろう。そこが『御法度』の魅力であり、幅広いファン多くのリピーターを生んでいる理由であろう。であるから、ある程度自由な解釈が許される映画と思われるが、私なりの『御法度』の謎解きを近日中にアップしたい。

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 改題『ファイト・クラブ』
 『御法度』を見ていて思ったのは、『ファイト・クラブ』とそっくりであるということである。テーマ的に見れば全く同じ映画といってよい。金銭的、物質的には満たされた生活をしていなから、不全感を感じ、生きている実感を感じない主人公。その主人公が、ファイト・クラブ、あるいは新撰組に入ることを通して、生と死のぎりぎりの世界に身を置くことによって、初めて生きているという実感を感じる。しかし、その喜びに対する渇望感はさらに深まるばかり。結局、自らの死に直面して初めて生の喜びと快楽を味わい、悲惨なラストでありながら実はハッピーエンドになっているという二重構造のラストシーン。全てが、そっくりな映画である。別に、どっちが真似したということでもないだろうが、生きている実感を感じない人が多く存在しているであろう現代の一面を切り出しているという点で、共通点が生じているのであろう。そういう点からみると、『御法度』は幕末の新撰組を舞台にしていながら、実は現代的なテーマを扱っていると言えるのである。

殺陣のすばらしさ
 『御法度』の一つとして、殺陣の素晴らしさに言及しないわけにはいかない。冒頭の入局試験の立会いシーンが圧巻である。緊迫感。そして、武田真治も松田龍平もなかなかの使い手に見える。そして、長州浪人との戦いは凄い。ゴツンという刀が骨に当たる音が聞こえてくるようだ。斬られてこれほど痛そうな時代劇をはじめて見た。時代劇といえば、次から次へと敵をたたき斬るのが当たり前になっている。しかし、現実には一本の刀で二人も斬れば刃がボロボロになって使えなくなる。しかし、そこまでリアリティにこだわって作られている時代劇は、黒澤映画くらいなもので、他には滅多におめにかからない。しかし、『御法度』には、本当の真剣勝負がリアリズムで描かれていた。まさに殺陣。死ぬか生きるかという緊迫感がみなぎっていた。そして、その死ぬか生きるかという緊迫感こそが、この映画のテーマと直結してくるのだ。このリアリティに満ちた殺陣なしでは、『御法度』という映画は成功しなかっただろう。

完全解読篇 (2000年9月16日更新)

 『御法度』における論点、疑問点を列挙すると、以下の通りになる。これらの全ての疑問点に明解な回答を与えることが、『御法度』の謎を完全解明したということになるだろう。


1 湯沢を殺したのは誰か?
2 田代と惣三郎の立会いで、惣三郎が腰抜けになったのは本当か?
3 沖田が、惣三郎に井上との稽古を勧めたのはなぜか?
4 惣三郎の「願」とは何か?
5 「誰ともちぎってはおりません」の真意は?
6 山崎を襲撃し、田代の小柄を落としたのは誰か?
7 沖田と土方が聞き取れなかった、惣三郎が田代に言った言葉は何か?
8 沖田に衆道の気は全くなかったか? 「雨月物語」のエピソードをどう理解するか?
9 沖田は何をしに河原に戻ったか?
10 土方が桜の木を切った理由

 難解な映画を解明するのは難しいが、その手がかりとなる有用な方法がある。「原作との比較法」である。樺沢が考案するこの方法は、原作の映画化作品を解明するのに非常に有用である。「原作との比較法」を簡単に言えば、「原作になくて、映画にしかない部分に映画作家の意図が隠されている」ということである。原作を映画化するという行為は、その映画作家が、その原作に共感を持ったからである。かといって、単に原作を忠実に寸分たがわず映画化したとしても面白いとは限らず、通常いくつかのシーンが付け加えられる。なぜ、そのシーンを付け加えるかというと、映画をおもしろくするためであり、映画作家にとってその映画のテーマをより明確化するためである。すなわち、原作に書かれてなく、映画に加えられたシーンが、非常に重要な意味を持つことになる。
 『御法度』は、司馬遼太郎の短編集「新撰組血風録」から「前髪の惣三郎」と「三条蹟乱刃」をもとに作られている。「三条蹟乱刃」は、井上源三郎と国枝大二郎の出会いから三条河原での肥後藩士との乱刃に至るまでの話だが、『御法度』では国枝大二郎がそっくりそのまま加納惣三郎に置き換えられている。その点を除くと、『御法度』は原作「新撰組血風録」に非常に忠実に作られている。セリフ、土方歳三の一人称の独白など、ほとんど原作のまま採用されている。原作と異なるところは、数箇所しかない。しかしながら、その数箇所の違いが重要である。その微妙な違いが、『御法度』を謎めいた映画にし、原作とは全く違う想世界を形成している。
原作と小説との相違点は以下の四つである。

1 入隊試験の形式
 映画では、沖田総司が入隊希望の剣士たちと総当りで、立合いを行っていく。リアリティに満ちた緊迫感あふれる殺陣。映画のつかみとしては最高の導入である。しかし原作では、入隊希望の剣士同士が立合いを行い、沖田はその試合の審判をしているにすぎない。
 なぜ、映画ではこのように書き換えられたか。一つの理由は、沖田総司演じる武田真治の出番が少ないための、ファン・サービスという意味があるかもしれない。土方歳三(ビートたけし)を中心に話が進むため、土方に比べて沖田の登場シーンが少ない。このファースト・シーンは加納惣三郎と田代彪蔵の紹介をしながら、土方歳三、沖田総司、近藤勇という新撰組の三人の紹介シーンでもある。もし、このシーンで沖田が単に審判にとどまってしまっては、沖田の印象が弱まってしまう。しかし、それでは『御法度』という映画は成立しなくなる。『御法度』の表の主役は加納惣三郎と土方歳三だが、陰の重要な役が沖田総司なのである。それを、この冒頭の鬼気迫る立会いシーンで表現しているのである。
二つ目の意味は、土方が沖田に、「(加納と田代では)腕はどちらができるだろう」と尋ねるシーンへの伏線としての意義である。ここで土方の「加納惣三郎ですよ」という言葉が、単に審判をしていた原作よりも、実際に立ち合った映画の方が、数倍の重みを持つ。
 その後の土方の判断に、加納の方が腕が上という言葉は、大きな影響を与える。土方自らが、加納と立会い、そして田代と加納を立ち合わせる。最後に田代を斬らせる役して加納を選んだのも、加納が田代より強いという確証があってのことである。
原作との違いから、映画では沖田総司の存在感、そして沖田が土方の判断に大きな影響を与えていることを強調していることがわかる。

2 沖田が惣三郎に言った「井上さんに稽古をつけてもらえ」というセリフ
 『御法度』のセリフのほとんどは、原作のセリフをそのまま使ってる。原作を読んでいると、シナリオを読んでいるような錯覚にとらわれるほど、原作に忠実である。そうした中、原作にないセリフもいくつか映画に加えられている。「井上さんに稽古をつけてもらえ」という沖田のセリフがそうである。
「三条蹟乱刃」では、沖田と国枝大二郎が語る場面はあるが、「井上さんに稽古をつけてもらえ」とは言わない。武芸に秀でない井上源三郎と、若いにもかかわらずかなりの腕を持つ加納とが立ち合うとどのようなことになるか。天才剣士である沖田にわからないはずがない。加納が手を抜いては井上に失礼だし、本気を出して井上の面子を潰しても失礼である。いずれにせよ、何らかの問題が生じてもおかしくないだろう。原作では、たまたま道場にい合わせた井上と国枝が手合わせをして、それをたまたま肥後藩士にその模様を目撃される。しかし、映画では沖田が加納に「井上と稽古せよ」と言ったことがきっかけとなり、加納と井上が手合わせをし、それを肥後藩士に目撃される。逆にいうと、沖田の一言さえなければ、三条蹟乱刃が起きなかったような印象すら与える。「1 入隊試験の形式」の変更と同様に、沖田がその後の出来事の仕掛け人のように見える。
 さらに注意すべきは、井上と惣三郎が小川邸へ向かったことを最初に気づいた人物が、沖田総司その人であったことである。「第一発見者を疑え。」推理小説の原則に従うと、「三条蹟乱刃事件」を沖田総司が仕組んだように見える。もっとも、肥後藩士の目撃は偶然ではあったのだろうが。

3 沖田の「雨月物語」の引用
 沖田は、惣三郎の介添えに向かう前、土方と待ち合わせる。そこで、沖田は「雨月物語」の一節を土方に語る。この語りのシーンはかなり長い。幽霊話の裏に衆道のモチーフが隠されていることを沖田は見抜く。そして、沖田は言う「男が男を追っかけるなんて、私にはわからないなあ。」沖田のこの言葉は、彼の本心を表わしているのか。原作「新撰組血風録」にもこのセリフはあるが、それは文字通りの意味としてとらえられる。しかし映画は違う。原作にはまったくない「雨月物語」の引用の後の、このセリフは全く別の意味を持つことになる。本当に衆道に全く興味かないのなら、「雨月物語」に隠された衆道のモチーフに気づくだろうか。土方に話した物語は、話の細かい部分まで詳しく記憶されている。衆道に全く興味がないのなら、このたわいのない(衆道に興味のないものにとって)物語をここまで詳細に記憶しているだろうか。そして、その話を土方にした意味は何だろうか。
 この話をする前、沖田は川に足まくりをして入り、童と遊んでいた。その沖田(武田真治)の足が妙に艶かしいのだ。そして、沖田の赤フンドシがちらりと見える。映像的に武田真治の男の色気を明らかに強調している。
沖田に衆道の気が全くないのなら、このシーンは不要である。ない方が良い。しかし、原作にはないが、映画には入れられたのだ。つまり大島渚は、「沖田に衆道の気があるかもしれない」という印象を観客にもたせることを意図したと考えられる。逆に「そうでないかもしれない」という余地を十分残しているわけではあるが。
この「雨月物語」の引用シーンがあるゆえに、『御法度』は原作とは全く別な作品に変質している。それは、現実の新撰組とは全く違う、松田龍平、武田真治、ビートたけしらが作り上げる幻想世界として『御法度』ワールドである。『御法度』が幻想世界であることは、ラストの桜の現実感のない綺麗すぎる美しさが、それを代弁しているだろう。
この「雨月物語」のシーンがあるがゆえに、『御法度』は時代劇や同性愛映画にとどまることのない、一種の推理もの、謎解きものに変貌し、ある種のファンタジーとして完成されるのである。
 『御法度』の完全解明と銘打ったが、実は『御法度』が呈示する謎に正解はない。もし、あるとすれば、複数の答えがたくさんあるのである。「雨月物語」のシーンが、それを顕著に表わしているが、『御法度』にはダブル・ミーニング(多重の意味)をにおわせるセリフとシーンがたくさんある。そして、それをどちらにも解釈できるように演出している。すなわち、見る側の心境によっていかようにも見えるのが『御法度』である。ある種のファンタジーと表現したのは、見る側によって姿を変え、そして見る側に若干の想像力を要求するからである。『御法度』を見てイメージを膨らませる、『御法度』の自分なりの答えを見つけるという行為自体が、大島渚の仕組んだ意図であろう。
私は『御法度』は、いかように解釈してもそれでおもしろく見れるのであれば、それでよいと考えるが、それで満足しない人が世の中には多いようである(『御法度』の公式ホームページが大盛況であるという事実などから考えて)。


 やはり、具体的な謎解きを読まないと、多くの読者は満足しないであろうから、具体的な謎解きも書き加えねばなるまい。

1 湯沢を殺したのは誰か?
 湯沢を殺した犯人として考えられるのは、田代、惣三郎、沖田の三人である。
 土方と観察の山崎は、湯沢を殺したのは田代と考えた。加納と湯沢ができたことを知った、田代の嫉妬心による犯行と考えた。その結果として、惣三郎に田代を討たせたのである。
 しかし土方は、河川敷の暗闇での、惣三郎と田代のやりとりを見て、「これは違うのではないか」と感じる。惣三郎に「証拠はあがっている」と言われ、驚いた様子で「待て、なんのの証拠だ」と答える田代のリアクションからみて、田代はやっていないと判断するのが妥当であろう。しかし、単にとぼけた可能性もないわけではない。
田代でないとすれば、犯人は誰か?
やはり、惣三郎が怪しい。田代との関係があるのに、無理やり肉体を奪った湯沢を恨んでいたかもしれない。あるいは、後で詳述するが人を斬る喜びに目覚めた惣三郎が、湯沢を格好の餌食(田代に罪をなすりつけることができる)として選んだかもしれない。惣三郎説は濃厚である。
 もう一つ考えられるのが、沖田総司説である。これは「沖田に衆道の気はあったか」という問題と密接に絡んでくる。沖田に衆道の気が全くなければ、衆道によって新撰組の雰囲気を乱した惣三郎を憎んでいただろうし、衆道に落ちた湯沢、すなわち隊律を乱した湯沢を処刑してもおかしくない。同時に、同じく衆道によって隊律を乱した田代に容疑をかけられるとすれば、一石二鳥、いや三鳥である。
 逆に、沖田に衆道の気があったとしても、沖田が犯人かもしれない。沖田が惣三郎に思いを寄せていたとすれば、湯沢と田代に嫉妬心を感じるだろう。湯沢を殺し、田代に容疑をかけることは、やはり一石二鳥なのである。

2 田代と惣三郎の立会いで、惣三郎が腰抜けになったのは本当か?
 土方は田代と惣三郎、それぞれと自ら立会う。そしてその後、田代と惣三郎を直接に立合わせる。しかし、惣三郎は腰くだけとなり、田代に徹底的に痛めつけられる。結果として、「加納と田代はできている」という噂が広まる。しかし、このシーンはおかしい。惣三郎は明らかに弱すぎる。違和感すら感じられる。そして、最後の下線時期のシーンでの惣三郎を見ればわかるが、惣三郎は結縁した相手に腰くだけになるような玉ではない。田代を殺せと、土方に命令されて、顔色一つ変えなかった男である。実際、田代と惣三郎の戦いで、腰くだけたのは田代のほうであり、惣三郎は冷静そのものであった。惣三郎が結縁した相手に腰くだけになるのなら、惣三郎に湯沢は殺せないことになる。
 田代と惣三郎の立合いで、惣三郎はわざと弱く見せた疑いがある。それは、なぜか。「加納と田代はできている」という噂を広めるためである。なぜか。惣三郎が密かに思いを寄せる沖田に対するモーションであったか。自分が衆道であることをアピールして、他の男からも注目を浴びたかったから。死に急ぐ惣三郎は、自ら災いを招くような行為ばかりしているが、これもその一貫なのだろう。

3 沖田が、惣三郎に井上との稽古を勧めたのはなぜか?
 沖田が、惣三郎に井上との稽古を勧めたことは、一般にはあまり議論されていないようである。
 しかし、これは重要な問題であることは、「原作との比較法」が明らかにした通りである。
 この沖田のセリフは、映画の展開上全く必要がない。たまたま道場で出会った惣三郎が井上に稽古をお願いするという設定で十分なのである。しかし、沖田が井上と稽古するように惣三郎に勧めるセリフが入れられたのである。それは、沖田が全ての事件の首謀者であることを匂わせるため、としか考えられないのだが。

4 惣三郎の「願」とは何か?
 惣三郎は前髪。それは、「願」をかけているからだと言う。惣三郎の「願」とは何であろうか? それは、商人の息子としてはかなえられないもの。新撰組に入って初めてかなえられるものということになろう。しかし、この「願」についいては、最後まで明らかにされない。
 この「願」が、この映画の最後にかなったと考えるか、「願」がかなわず無念の死をとげたと考えるかは、映画の解釈に大きな影響を及ぼすだろう。『御法度』の原作は、「新撰組血風録」の「前髪の惣三郎」である。「前髪の」という形容詞がわざわざついている。前髪に「願」をかけていた惣三郎という意味である。その点から考えれば「前髪の惣三郎」は、前髪に「願」をかけていた惣三郎が、新選組に入り、「願」をかなえるまでの話と理解できるかもしれない。
 もし、惣三郎の「願」が、映画の最後までにかなっていたとしたら、「願」は何だったのか。それは、沖田に殺されることか? 「生」の実感を感じない男惣三郎は、死の瞬間に「生」の実感と充足を感じて死んだことは間違いないだろう。

5 「誰ともちぎってはおりません」の真意は?
 山崎と惣三郎の会話で、「君は、いったい、誰と結縁しているのかね」という質問に「たれとも」と答える。誰とも結縁していないとは、どういう意味か? 田代と湯沢とも結縁していなかたのか。この言葉の解釈には、二通りあるだろう。すなわち、言葉どおり誰とも結縁していないという意味。もう一つは、「身体は許したが心は許していない」、本当の結縁は未だしていないという意味である。その本当の結縁とは誰との結縁になるのか。沖田総司以外には、考えられない。

6 山崎を襲撃し、田代の小柄を落としたのは誰か?
 観察の山崎が神社で襲撃される。そしてその現場には、田代の小柄が落ちていた。
山崎を襲撃したのは誰か。襲撃者は、山崎に切り付けるが、すぐに退散する。すなわち、襲撃者の目的は、山崎を斬ることではなく、田代の小柄を落として、田代に罪をなすりつけることと考えられる。したがって、田代が犯人ということは考えられない。
最も疑わしいのが、惣三郎である。田代との関係に嫌気がさしたのか、山崎に興味をいだいた惣三郎にとって田代は、邪魔物と化した。その田代を始末するために、田代に罪をなすりつけた。田代を斬れと命令された惣三郎は、顔色一つ変えなかった。彼が田代を陥れた犯人だとすれば、当然顔色を変えることはないだろう。それを狙っていたわけであるから。
 惣三郎以外に、もう一人疑わしい人物がいる。それは、沖田総司である。沖田は、隊の規律が乱れることを、気に病んでいた。惣三郎を誘惑し、新選組の風紀を乱した田代を排除したいという考えを、沖田は持っていた。田代と惣三郎を一毛打尽に新選組から排除するために、田代を陥れ、田代に惣三郎を斬らせるように仕向けた。結果、田代と惣三郎は死に、新選組に平穏が訪れた。

7 沖田と土方が聞き取れなかった惣三郎が田代に言った言葉は何か?
 田代と惣三郎の対決シーン。戦いのさなか、惣三郎は田代に言葉を言う。沖田と土方は聞き取れなかったが、その言葉は何だったのか。結果から言おう。松竹関係者筋の話によると、このシーンで惣三郎が言った言葉は、「もろともに」である。「死なばもろとも」、一緒に死のうという意味である。案の定、田代は腰砕けになり、惣三郎は田代を切る。

8 沖田に衆道の気は全くなかったか? 「雨月物語」のエピソードをどう理解するか?
 これについては、原作との比較で既に考察した。原作と映画は別物。映画と現実の沖田とは別物である。「雨月物語」の行間に描かれた衆道のテーマに目ざとく気付いた『御法度』の沖田は、衆道の気があったと考えるべきだろう。

9 沖田は何をしに河原に戻ったか?
 これは、惣三郎を斬りに戻ったのである。
田代という邪魔物がいなくなり、惣三郎とちぎるために戻ったという見方も、ゼロではないが、原作でもそうであるように、沖田は惣三郎を斬ったのだろう。

10 土方が桜の木を切った理由
 沖田は、惣三郎を斬りに戻った。新選組の規律を考えるとそれは、当然の結末である。しかし、惣三郎のことが頭からはなれない土方は、その邪念を切り捨てるために、桜の木を切った。あるいは惣三郎に対して、好意を抱いていた自分に対する自己嫌悪の念を切り捨てるためであったかもしれない。
惣三郎という一人の男によって、新選組の面々が、心をかき乱された。その物語が、『御法度』なのである。

 これらの個別の謎解きをもとに、『御法度』を、もう一つ別な視点から見直してみよう。

1 沖田総司黒幕説
 新撰組最強の剣士である沖田総司は、新撰組に命をかけ、そして新撰組の将来を最も憂れいていた者の一人である。ある日、惣三郎という男が入局してから、新撰組に浮き足立った雰囲気が流れ始めた。新撰組に心血を注いできた沖田にとって、これは許し難い事態であった。惣三郎に衆道の喜びを教えたのは湯沢であることを知った沖田は、湯沢を斬った。惣三郎に失態を犯させて追求する口実とするべく、井上に稽古をつけてもらうよう、惣三郎に勧める。惣三郎と手合わせしたことがある沖田は、惣三郎の剣術の腕を十分に知っていた。井上と惣三郎が立ち会いをすれば、惣三郎が本気を出しても、手を抜いてもどちらにしても井上に対して失礼が生じる。そのことを沖田は見抜いていた。井上と惣三郎の立ち会いを肥後藩士に目撃されたのは偶然だろう。惣三郎が何らかの行動を起こすことを予期していた沖田は、惣三郎に対して細心の注意を払っていた。そのせいで、惣三郎が井上と二人で肥後藩士の根城に切り込もうとするところを、沖田が最初に発見することができた。
 こうした事件にもかかわらず、惣三郎が衆道から足を洗う様子はなく、今度は田代と惣三郎が結ばれたことを沖田は知る。新撰組に秩序を取り戻すためには、田代と惣三郎の二人を排除しなくてはいけない。田代を陥れるために、沖田は山崎を襲撃し田代の小柄を現場に残す。案の定、田代が山崎を襲撃した犯人と断定され、田代を惣三郎に斬らせることになる。田代と惣三郎の対決。予想通り、惣三郎は田代を斬る。
 最後に、沖田は惣三郎を斬るために河原に戻り、惣三郎を切り捨てる。衆道の種は新撰組から完全に排除され、沖田が切望していた新撰組の秩序が取り戻された。

 『御法度』における重要な事件の黒幕が、沖田であるという説は、かなり確からしい。しかし、この説はいくつかの謎を説明しない。例えば、沖田がなぜ雨月物語の引用をしたのか。惣三郎が邪魔なら、最後に斬らないで最初から惣三郎を斬れば済むだけの話である。しかし、沖田が惣三郎に対して少なからず好意を抱いて、なんとか惣三郎を斬らないで惣三郎を助ける方法を模索していたとも考えられる。

『御法度』を惣三郎の視点から見直すとどうなるであろうか。
2 死にとりつかれた男 惣三郎
 裕福な商人の息子として、何不自由なく育った惣三郎。しかし、彼は自分の人生に何かが足りないことに気付いていた。彼は、「生きている」と実感を感じたことがなかった。そんな彼は、生の実感を求めて新撰組に入局する。ある日彼は、斬首の介添えを命ぜられる。初めて人を斬るという好意に、惣三郎は全く臆することはなかった。いや、彼は人を殺すことの喜びを知った。人を斬ることで、初めて生の実感を感じることができた。
 湯沢によって惣三郎は衆道の喜びを教えられるが、その喜びは彼の不全感を満足させるものではなかった。人を殺す快感を知った惣三郎は、湯沢の存在が疎ましくなり、湯沢を斬る。自らに思いを寄せる男を斬ることは、さらに彼に快感を与えた。そして、斬るか斬られるかのせめぎあいにこそ、彼は生の実感を感じるように。肥後藩士のいる宿へ井上と二人で切り込むことは、ほとんど自殺行為である。しかし、自殺行為であるからこそ、彼は積極的に切り込みに参加しようとした。その結果、惣三郎は額を切られるが、彼の表情は満足感にあふれていた。彼は殺すこと、そして殺されること。「死」に対する強い誘惑に取りつかれる。惣三郎は、次の獲物として田代を選ぶ。田代を陥れるため、惣三郎は山崎を襲撃し田代の小柄を現場に残す。案の定、田代が山崎を襲撃した犯人と断定され、田代を斬る役に惣三郎が命じられる。土方にそれを言い渡された瞬間、惣三郎は全く動じる様子がなかったが、自分の思惑通りになったのだから動じるはずがない。田代と惣三郎の対決。惣三郎は言う。「もろともに。」この言葉が惣三郎の死への誘惑を如実に示している。好きな男を斬る、好かれる男に斬られるという甘美な誘惑。腰砕けになった田代を、惣三郎は斬る。惣三郎にとっての至福の瞬間。しかし、さらなる至福が、惣三郎に訪れる。惣三郎が密かに思いを寄せていた沖田が、惣三郎を斬りに来たのである。惣三郎が思いを寄せていたのは、田代でも湯沢でもなかった。山崎に誰ともちぎってないと答えたことがそれを表わしている。最愛の男沖田に斬られる惣三郎。これが、惣三郎の望んでいた相手のちぎりである。惣三郎は死の直前、「生の実感」と至福に包まれたに違いない。これは、惣三郎にとっての願が成就した瞬間でなかったか。
 かなり、倒錯した危険な仮説である。しかし、惣三郎の「死」に対する感覚は、普通の人とかなり異なっていたことは、映画のいくつかの描写から間違えないと思われる。

 以上、二つの仮説を提示してみた。おそらく、『御法度』にこれが答えだという決定的な答えは用意されていないのではないか。どちらともとれるように、大島渚は敢えて演出しているのではないか。それによって、本当はどうなんだろうという、観客の好奇心引き出すことを狙った演出である。その意図は成功し、たぐい稀な推理ドラマの傑作に仕上がっている。
 『御法度』を推理ドラマと要約してしまっては、『御法度』の本当のおもしろさを見落とすことになるかもしれない。死ぬか生きるかというギリギリの狭間で繰り広げられる、惣三郎をめぐる命懸けの恋物語。あるいは、死にとりつかれた男の狂気の世界。物語として、いろいろなおもしろみを多面体的に楽しめるということが『御法度』の大きな魅力である。
 映画は観客の心の鏡である。この多面体の万華鏡のどの部分を、どう見るか。それは、あなた次第である。

 

シカゴ発 映画の精神医学
アメリカ、シカゴ在住の精神科医が、最新ハリウッド映画を精神医学、心理学的に徹底解読。心の癒しに役立つ知識と情報を提供ています。
 人種、民族、宗教などアメリカ文化を様々な角度から考察。
 2004年まぐまぐメルマガ大賞、新人賞、総合3位受賞。
(マガジンID:0000136378)

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