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映画の心理秘術 「千と千尋の神隠し」に学ぶ
子供の自主性を育てる秘術

[映画の精神医学]

千と千尋の神隠し

pic2.gif (6852 バイト) オフィシャル・サイト
 「監督解説」も「作品解説」も少し説明しすぎでは? 考える余地がたくさんある映画だが、そうした種々の点について非常に詳しく解説されてしまっている。でも、監督があまりに饒舌すぎると、映画自体から直接楽しむという楽しみが減弱してしまうような・・・。
テーマをどう描くか
 正直言って私は宮崎駿アニメが大嫌いである。その映像の素晴らしさは評価するが、テーマ性という意味で、過去の宮崎作品は受け入れられない。これがテーマですみたいな感じが、偽善的であり、非常に嫌味である。
 私にとって宮崎駿といえば、「風と谷のナウシカ」の原作コミックである。クアトロやクシャナの苦悩に満ちた人間描写、一見悪役だがその裏に広がる深い苦悩とリアルな人物設定。結局、「風と谷のナウシカ」でスタートとした宮崎駿は、その後、子供たちにもわかりやさいキャラクターということで、非常に単純明快な人物ばかりを生み出してきた。そして、明確なテーマ性。そう言うと響きは良いが、私には偽善的プロパガンダにしか見えなかった。
 『千と千尋』はテーマがはっきりしないという批判があるが、私はここが非常にいいと思う。過去の作品があまりにもテーマを打ち出しすぎている。すなわち、テーマが明らか過ぎて考える余地見たいのが残されていないわけだ。『もののけ姫』くらいなると、多少考える余地を残しているけども、「自然の大切さ」のテーマは小学生にも伝わるであろう。
 『千と千尋』では、「これがテーマです」みたいな一本柱のテーマが、はっきりと打ち出されていない(過去の宮崎作品ほどはっきりとは)。
 
 「お金より大切なものって何だろう?」
 「人は見かけで判断しちゃいけないね」
 「お父さんとお母さんが急ににいなくなったらどうする?」

 「助けて欲しいときに、誰も助けてくれなかったらどうしよう」
 「青い空ってきれいだね」

 「カオナシって、何だか寂しそう」
 『千と千尋』を見終わった後、子供と一緒にいろいろなことを考えることができる、いろいろなエピソードが詰まっている。さりげないテーマが、さりげなくてくさんちりばめられているのが『千と千尋』である。そういうさりげないエピソードが、ボディ・ブローのように効いてくるというか、少しずつ心に染みてくる。
 過去の宮崎作品に比べて力みが抜けているところが凄く良いと思う。歳をとると勢いがなくなってダメになる映画監督が多い中、良い意味で非常に力が抜けて、宮崎駿は老成したという感じだ。
 『千と千尋』を感動大作のように宣伝するテレビCMは、莫大な興行収入と引き換えに、多くの観客に誤った先入観と失望

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老成した
宮崎駿監督

を与えた。『千と千尋』は「心に染みるいい話」という感じであって、宮崎駿も観客を感動させようと思ってこの作品は作っていないだろう。
 我々観客は、テレビCMや映画の予告編が、映画の本質と何ら関係がないということを、そろそろ勉強してもいいように思える。
物語断片の集合体
 『千と千尋』は、いろいろな物語の断片の集合体である。オクサレ様は『風の谷のナウシカ』のオームであったり、湯屋に集まる神々は『隣のトトロ』に出てきそうなキャラであったりね実際ススワタリが再登場したり、ハクとの滑空シーンは『天空の城ラピュタ』であったり、他に列挙していくとキリがない。
 そうした宮崎作品の断片という他に、多くの民話や寓話からアイデアを得ている。
 少女が不思議の世界に迷い込むというくだりは「不思議の国のアリス」、あるいは「雀のお宿」や「鼠の御殿」である。
 千尋の両親が豚になるというエピソードは、ディズニーの『ピノキオ』から来ているのだろう。『ピノキオ』の遊園地で遊び過ぎた子供たちが、ロバにされて売り飛ばされるというエピソードである。

 オクサレ様が実は格の高い河の神様で、それを助けた千尋が不思議な力を持つ泥団子をもらうというエピソード。人助けをして予期せぬ宝物をもらうというのは、典型的な日本の民話のプロットである。
 過去の宮崎作品を含む、いろいろな映画のオマージュ。あるいは、古今東西の民話や寓話、童話のエッセンスが詰め込まれている。このストーリーメイキングの方法というのは、実はスターウォーズと全く同じである。スターウォーズは民話ではなく、神話に題材を得ているが、黒澤映画を中心とした種々の映画作品、神話の断片から構成されている。スター・ウォーズは「現代の神話」を目指しているが、『千と千尋』は「現代の民話」を目指していたのかもしれない。宮崎の表現を借りれば「10代の少女に必要な物語」が、それと同様のことを意味しているのだろう。

現代日本を舞台にする意味
 『隣のトトロ』を見た直後、私は痛烈に宮崎批判をした。その理由は、物語の舞台設定である。『隣のトトロ』の時代設定は、自動三輪が走る数十年前の昔の日本である。


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再登場したススワタリ
(『隣のトトロ』のキャラ)
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オオトリ様 いかにも宮崎らしいキャラ

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大空を滑空するシーンは、『天空の城ラピュタ』あるいは『紅の豚』

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オクサレ様 人は見みかけで判断してはいけないという教訓を含んでいる。偏見と先入観を持たない千は、わけ隔てなく接する。

 なぜ、『隣のトトロ』は現代の日本を舞台にせずに、昔の日本を舞台にしたのか。そこが非常に気に食わなかった。それはささいな問題に思えるかもしれないが、映画の根幹にかかわる重要な問題である。
 なぜなら、昔を舞台にすることで、「昔の日本はこんなに自然が豊かだったんだよ」というテーマ、裏返せば「今の日本には自然もないし、トトロなんかいないんだよ」ということになってしまうからだ。結局、『隣のトトロ』は、昔懐かしい風景(例えば三輪トラックなど)を映像化したいという悪しきレトロ主義が支配する、イヤミな映画になってしまった。

 『隣のトトロ』『千と千尋』、都会の少女が田舎に引っ越すシーンから始まる。『千と千尋』のファースト・シーンを、『隣のトトロ』につけても全くいいはずだ。すなわち、現代日本の都会の少女が、田舎に来て、自然の豊かさに触れ合い、トトロやミコバスといった不思議な神々、精霊(?)に出会うという話でも全くよかったはずなのに、宮崎は映画の舞台をかなり昔の日本に設定してしまった。
 私の批判が宮崎に届いたわけではないだろうが、私が想定したベストのオープニングを持った作品『千と千尋』を、ようやく宮崎は作ってくれた。
 『隣のトトロ』などを見ると、その視点は「現実逃避」の様にも見えるが、ようやく現実を見据え、現実にいそうな普通の少女を主人公にした。『千と千尋』はファンタジー世界を描きながら、現実を直面させる映画である。カオナシがコミュニケーション不全に陥った現代人を現していることも、それを裏付けよう。
 実は「風の谷のナウシカ」(原作コミック)は、極めて現実的(リアル)な物語あったわけだが、宮崎は老成しつつ原点に回帰したのかという安堵の感もある。
 ハクが多重人格的に描かれていることに対し、違和感を抱いた人もいるだろうが、これこそがリアルな人物描写というものだ。いつも同じ表情しかみせない、ステレオタイプの紋切り型キャラクター(リアリティを持たない、映画の中にしか存在しない人物像)を見慣れてしまっている、我々観客の悲しさであるし、宮崎がいままでわかりやすい単純なキャラクター・メイキングをしてきたことの弊害でもある。
 心ややさい人間は、いつでも優しい表情や態度をとりつづけるのか。現実の世界ではそんなことはありえないだろう。疲れたり悩み事を抱えていれば、誰だってイライラしたり、怒りっぽくなるだろう。ハクがセンに対して冷たい態度をとるシーン。このシーンが入ることによって、人物描写のリアリティが格段に増しているにもかかわらず、それを逆に不自然感じてしまう人は、非常に寂しいと思う。人間、喜怒哀楽があって当たり前なわけでしょ。やさしいときもあるし、怒るときもある。そんな当たり前のことを、実は我々は結構忘れてしまっている。そういう現代日本に埋もれてしまったものに対する再発見の視点が、『千と千尋』にはちりばめられていて、非常におもしろいのである。

pic7.gif (12639 バイト) 都会から田舎への引越しから物語りは始まる。意気消沈する千尋に対して、妙に父親は明るい。

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現実と幻想の境界を示す石仏

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宮崎パワー全開の
デザイン


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時に別人の表情を見せるハク
でも、それこそがリアルな人物描写というもの。


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コミュニケーション不全
飽食
拝金主義
個性に乏しい個人(個人のカオがない、すなわちカオナシ)


カオナシの象徴するものは
我々現代人である


 リアルといえば、冒頭の不思議世界に入っていくまでの、ファースト・シーンが傑出している。現代の都会の少女千尋が、都会を放れて田舎に引っ越す。そして、おそらく初めて生の自然に接する。石仏に対する驚きの表情がすごく生っぽい。その都会の少女が不思議な世界に迷い込む。この体験を多感な時期の少女の白昼夢と理解するもよし、現実に不思議な現象が起こったファンタジーとして理解するのもいいだろう。 pic13.jpg (8704 バイト)
日本的な風景
もちろん宮崎的にアレンジされた独特の日本観である。

 不思議体験に入っていく前に、千尋は一つのカルチャーショックを受ける。木々がおい茂る森の中の祠と石像。大きな好奇心とともに、体験したことのないものに対する畏怖、これは偉大なる自然、あるいは自然とともにある八百万神に対する畏怖であろうか。旧友の別れに悲嘆する少女。その不安定な状態の少女が、未体験の生の自然と接することで、不思議な神々の世界に入っていくというくだりが、妙な説得力を持っている。
 「引越し」という生活文化の変化。都会から田舎へというベクトル変換に、現実から幻想世界へというベクトルが重なり合って、力強い説得力を出しているのである。『千と千尋』は文化というものに非常にこだわった映画である。

言霊文化=日本文化
 「千尋」は自分の名前を奪われて、「千」という名前をつけられる。名前を変えることで相手に完全に支配されるという。
 あるいは湯屋で、「いやだ」「帰りたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出して動物に変えてしまうという。逆に、「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。
 なぜ、「名前」や「言葉」が大切なのだろうか。この不思議な世界の、不思議な約束ごとが、映画に極めて重要なリアリティを与えるとともに、テーマ性も表している。
 「言葉」に出すだけで、それが現実化する。それを「言霊」という。日本は古くから言霊文化である。例えば、神社でお払いをするが、なにをするかというと「払いたまえ」とい祝詞(のりと)を発する、すなわち「穢れが払われますように」と言語化するだけで実際に穢れが払われてしまう。それが「言霊」である。
 平安時代の貴族が「国家平安」の和歌を詠んでいたのは、「国家が平安たれ」と言語化するだけでそうなると信じていたからである。こうした言霊文化は、現代日本にも脈々と受け継がれている。たとえば、受験生に向かって「落ちる」とか「すべる」という言葉を言わないようにするというのも、「言霊」文化あっての風習である。
『千と千尋』の不思議世界は、日本の神々が集まる世界である。それは昔ながらの日本家屋であったり、日本ならではの自然であったりという映像的な部分で描かれていることは、誰の目にも明らかであろうが、精神的な意味での日本性を現しているのが、この「言霊」に関する描写なのである。

 言霊文化においては、「名前」は「存在」そのものである。すなわち、名前を奪われるというのは、自分の存在を奪われることに等しい。もし、『千と千尋』の「名前」と「言葉」に対する奇妙な約束に違和感を感じた人がいたとしたら、「言霊」についての造詣をもう少し深めて欲しい。
 『千と千尋』のテーマの一つは、現代社会に埋もれた日本の良さの再発見である。都会の少女が、田舎にやって来るという意味。日本に「は昔ながらの豊かな自然がまだ残っているよ」そして、その自然には神々が宿っているかも、と思わせるほど豊かなのである。
 『となりのトトロ』では、日本文化の良さが「懐古」という後ろ向きのベクトルで描かれている。しかし、『千と千尋』では、再発見という前向きの視点で描いているところを大きく評価したいと思う。

 

シカゴ発 映画の精神医学
アメリカ、シカゴ在住の精神科医が、最新ハリウッド映画を精神医学、心理学的に徹底解読。心の癒しに役立つ知識と情報を提供ています。
 人種、民族、宗教などアメリカ文化を様々な角度から考察。
 2004年まぐまぐメルマガ大賞、新人賞、総合3位受賞。
(マガジンID:0000136378)

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