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完全映画解読 スターリングラード |
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『プライベート・ライアン』に迫る超骨太映画 「いまさら、何でスターリングラードなの?」、見る前からそんな疑問が頭から離れなかった。『プライベート・ライアン』は戦争映画における金字塔を築いた。「戦争は人間と人間との殺し合いにすぎない」、そんな事実を我々に突きつけた。『プライベート・ライアン』を超える第二次大戦物が今後作られるのだろうか。『プライベート・ライアン』はそれほど凄い映画だった。 その『プライベート・ライアン』の後に、今までほとんど注目も浴びなかったスターリングラード攻防戦が、今更どうして取り上げられなければならないのか。あるいは、この『スターリングラード』に『プライベート・ライアン』以上の何かが描かれているというのか? 答えは、「イエス」であった。 『プライベート・ライアン』を超えるとは言えないが、『プライベート・ライアン』に匹敵する壮大なドラマとテーマが、『スターリングラード』には描かれている。 しかし、『スターリングラード』の評判というものを、あまり耳にしない。凄い映画だとか、傑作だという話は、ほとんど聞かない。あやうく、私も見逃すところだった。『スターリングラード』はかなり難しい映画だ。注意して見ていないと重要なセリフを聞きそびれてしまう。 |
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私が『スターリングラード』を傑作だと感じたのは、主に三つの理由によるが、それに関わる描写が非常にわかりずらい。『スターリングラード』は、説明の必要な映画である。解読されるべき映画。十分理解されないが故に、不当な評価を受けている映画である。まさに、樺沢の登場の出番である。それでは、『スターリングラード』の解読を始めよう。 |
三角関係に隠された一つのテーマ 『スターリングラード』の重要な人間関係は三つある。。ヴァシリとダニロフの友情。ヴァシリとターニャとの愛情(あるいはダニロフを含めた三角関係)。そして、ケーニッヒ少佐とヴァシリとのスナイパー対決である。 まずは、三角関係についての説明から始めよう。 ロシアのスターリングラードに迫り来るドイツ軍。冒頭の戦闘シーンは壮絶である。まさに、スペクタクルだ。その冒頭部の戦闘シーンで描かれるのは、集団VS集団の戦い。集団VS集団の殺し合いである。対立関係としては、「ドイツVSロシア」である。 その戦場で、かろうじて生き残った二人の兵士。キエフの羊飼いヴァシリと頭の切れるダニロフ。ギリギリの限界状況から生還したヴァシリとダニロフの間には、強い友情が生まれる。政治士官となったダニロフは、スナイパー、ヴァシリの素晴らしい功績を新聞で書きつづける。 そこに現れる一人の女性、ターニャ。ダニロフはターニャの命を救おうと、彼女を後方の情報業務へ推薦する。ダニロフは兵士というより文官である。身体を使うよりも頭を使うほうが得意なタイプ。そして、ターニャはモスクワの大学を卒業し、ドイツ語を流暢にしゃべるインテリである。ダニロフとターニャの二人には、共通した知性が描かれている。その理由が、ターニャの口から語られる。ターニャはダニロフに言う「あなたも、ユダヤ人ね」、そしてターニャは自分が親から話された約束の地を守り通す話をダニロフに語る(当然、約束の地を守るという話は、スターリングラードを守るという現在の自分たちの境遇にオーバーラップしている)。 ターニャとダニロフはユダヤ人だった。「あなたも、ユダヤ人ね」、このセリフこそが、この映画の中で最も重要なセリフである(テーマにつながるという意味で)。 ユダヤ人、すなわち頭が良いというステレオタイプのイメージを受けて、ダニロフとターニャは知的な存在として描かれる。そして、彼らがユダヤ人であることを明かした瞬間から、映画は「ドイツVSロシア」の映画から、「ナチスVSユダヤ」の映画に変貌する。 |
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当時のロシアには何百万人ものユダヤ人がいた。ユダヤ人はドイツやポーランドだけにいたわけではない。ロシア人であり、ユダヤ人である彼らが、反ユダヤ主義を掲げるナチス・ドイツと戦う。 今までの第二次大戦もの映画は、ほとんど全てが、反ユダヤ主義のナチスを打倒せよ、というテーマの映画であった。ナチスによる反ユダヤ主義を強調する映画を、ハリウッドは作りつづけてきた。『プライベート・ライアン』にも、ユダヤ人兵士が重要な役回りで登場していた。『スターリングラード』もそうした従来のハリウッドの反ナチ映画と同様のスタンスで描かれてる。ユダヤ人虐殺したナチスを批判するというスタンスである。 『スターリングラード』においても、ユダヤ人虐殺描写はあった。ほとんどの人は気づいていないかもしれない。ターニャが両親の死について語るシーンである。ナチスに捕えられた両親は、橋の上に連れて行かれて、銃で撃たれて、川の底へと落ちていった。ナチスのロシア西部戦線での、ユダヤ人虐殺である。占領地区で民間人を捕えた場合、勝手に処刑していいはずがない。明らかな国際法違反である。ナチスはロシア西部戦線で占領地区にいたユダヤ人(一般住民)を、ことごとく虐殺したと言われている。正確に言うと、ユダヤ人とジプシーだけを選んで、殺したということであるが・・・。 ドイツやポーランドのユダヤ人収容所の話を知らない人はいないだろうが、ナチスの西部戦線でのユダヤ人虐殺については、一般には(日本人には)あまり知られていない。そのユダヤ人虐殺が、ターニャのセリフによって、切々と語られていたのである。 ターニャは戦場で銃を持って戦うことに、最後までこだわっていた。ダニロフはそうした彼女を諭して、何とか情報業務にあたらせようとしていた。なぜ彼女が自分の命を顧みず、戦場に出ようと強く願ったのか。その理由は両親の復讐のためである。自分の両親の命を奪った憎きナチスを自分の手で殺してやりたい。そこまでは映画では言語化されていないが、彼女の両親が殺された様子を語るシーンが全てを説明しているのである。 |
スターリンのために スターリングラードで戦う スターリンが行った「粛清」は、反ユダヤ主義の影を帯びていた(「粛清」と反ユダヤ主義について詳しく知りたい人はこちらへ)。その「粛清」によって、スターリングは確固たる政治的地位を築いたのである。 スターリンの名を冠したスターリングラードで戦うユダヤ人兵士ダニロフとターニャ。ダニロフは国家のために戦うという姿勢を表に出しながら、何かやりきれないものを背負っているように見えた。 それは、自分が反ユダヤ主義者のために戦っているという矛盾ではなかったか。ダニロフがスターリンを直接批判するセリフはないが、この映画自体がスターリンをネガティブなものとして描いている。それはスターリングラードの象徴として立てられていたスターリン像、冒頭のシーンでは立派に立っているが、映画中盤では無残に倒れて瓦礫に埋もれている。スターリン像が倒れていることは別に構わないが、スターリン像の首はとれて、ひどい惨状で瓦礫の中に埋もれている。そこまでひどい状態のスターリン像を映像化しているということが、この映画が、スターリンに対してネガティブなイメージを描いていることの証拠である。 ダニロフは何か暗い影を背負っているようにな印象を受ける。彼の過去や背景についての説明はないが、その理由はユダヤ人ダニロフが、反ユダヤ主義者スターリンのために戦わなければいけないという自己矛盾を抱えていたためではないのか。政治に詳しいダニロフであるから、スターリンの影の一面についても周知していたであろう。 |
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誰のために戦うのか? エド・ハリスが演じるケーニッヒ少佐。彼がベルリンから列車でやって来るシーン。ロシアからの負傷兵を乗せた医療列車とすれ違う。その列車を見たケーニッヒは、それを見たくないかのようにカーテンを降ろす。このシーンの意味が良くわからなかった。なぜなら、このシーンを直接理解すれば、ケーニッヒは傷病兵を直視することができない小心者という意味になるからだ。しかし実際のケーニッヒは、歴戦のつわもの。豪胆で狡猾、ナチスで最も優秀なスナイパーなのである。医療列車を見ただけでビビルような男ではないはずだ。 |
![]() ケーニッヒ少佐 エド・ハリスが演じるケーニッヒ少佐は、圧倒的な存在感を示している。 |
その理由が、後半に明かされる。ケーニッヒの将校である息子は、ロシア兵に狙撃されたことが明らかになる。勲章まで授与された優秀な息子。愛すべき息子。その息子を殺したのがヴァシリ本人であるかは不明だとしても、その復讐心はロシア兵のスナイパーの長であるヴァシリに向けられる。冷静にヴァシリをつけ狙う超精密な狙撃機械のような男ケーニッヒが、実は息子の復讐のためにヴァシリを追っていたことが明らかにされる。かなり意外な描写であるが、これで医療列車から目を背けた理由も明らかになった。負傷兵が、戦場で死んだ自分の息子を思い出させるからである。 なかなかヴァシリをしとめることができないケーニッヒに、上官は告げる。ケーニッヒがヴァシリに返り討ちされてしまった場合、ロシア側に大きな宣伝材料を与えてしまうことになるので、すぐにベルリンに帰還せよというのだ。しかし、ケーニッヒはその命令に違反して、ヴァシリとの決着に向かう。自分の勲章をはずし、息子の勲章をつけて。まさに、復讐以外の何ものでもない。 最後の息をのむ決戦シーン。息子の復讐を心に誓ったケーニッヒ少佐。 一方のヴァシリは、ターニャの死を聞かされ動揺する。そしてダニロフは、自ら犠牲となってケーニッヒの標的となり殺されてしまう。ヴァシリもまた復讐の鬼である。愛するターニャを殺したナチスに対する復讐。そして、親友ダニロフを殺したケーニッヒ本人への復讐。 |
息子を失ったケーニッヒと愛する者を失ったヴァシリ。ケーニッヒの行動は命令違反の単独行動である。また、ロシア兵も撤退を開始しており、ヴァシリの行動も単独行動である。彼らは軍というしばりからはずれて、一人の男対男として、この決戦に挑んでいるのである。 「ドイツVSロシア」から物語は始まり、「ナチスVSユダヤ」へと描写が深まる。そして最後に行き着くのは、集団を超えた「男VS男」、個人対個人への戦いに収束していく。「戦争とは人間と人間との殺し合いである」というテーマが、「個対個」の戦いによって強調され、昇華されるのだ。 |
ドイツ VS ロシア |
対決シーンに対する誤解 背負うものの大きさ ヴァシリとケーニッヒの対決シーン。長時間に及ぶ死闘の結果、ケーニッヒが姿を現して、ヴァシリに撃たれて死ぬ。この結末に対して、かなり多くの人が不満を抱いているようである。『スターリングラード』の掲示版を見ると、その辺の不満がたくさん書かれている。例えば、典型的なのは次のようなもの。 「ケーニッヒ少佐ともあろう者があんな事をするわけないっ!」 「用意周到で一匹狼のようなケーニッヒ少佐の最期にしてはお粗末すぎます。」 私は、全く違和感なく、この決闘シーンを受け入れることができた。この最後の結末について誤解を抱いている人が多いので、若干の説明を加えておく必要がある。 沈着冷静で狡猾な本来のケーニッヒであれば、フラッと出ていくというのは、セオリー無視のバカげた行為だったのかもれない。しかし、最後の決闘シーンのケーニッヒは、沈着冷静な殺人機械のケーニッヒではない。自分の息子を殺され、復讐心にとりつかれたケーニッヒは冷静さを失っている。 ケーニッヒがヴァシリを殺すチャンスは、この最後の決戦のチャンスしかなった。ケーニッヒは上官からベルリンに戻るように言い渡されていた。本当であれば、すぐにでもベルリンに戻らなければいけないはずである。さらに、ドイツ軍の攻勢が優勢になり、ロシア軍はボルガ川を渡り撤退を開始している。ヴァシリも撤退してしまうかもしれない。ケーニッヒには明らかに焦りがある。 ケーニッヒが少年サーシャを殺したことに関しても、掲示版では賛否両論あるが、ケーニッヒが少年を殺しロープでつるした理由は、ヴァシリをおびき寄せるため。最後のチャンスにかけるためなのである。敵のスパイだからといって、裏庭に連れて行って殺して良いはずがない。ましてサーシャは、子供であり武装していたわけでもない。軍規にそって、しかるべき裁きを受けるべきであり、自分の判断で勝手に殺して、さらにロープでぶら下げるなどという行動は、明らかに軍規違反である。 また、ケーニッヒはもう一つ軍規違反をしている。ケーニッヒは上官から、逆にヴァシリに殺されたら困るからこれ以上対決するな、と言われている。ベルリンに戻れと言われているのに、その命令を無視して、彼はヴァシリとの対決に向かっている。軍人にとって、上官の命令違反をすることは、重大な問題である。頭の良いケーニッヒなら、そんなことは百も承知であろう。 このヴァシリとの決戦において、ケーニッヒには理性というものが十分残っていない。息子の復讐のために、軍人としてのキャリアも、自分の命さえもささげている。もっとも焦りを表情にあらわしたケーニッヒ(エド・ハリス)など、映像的に醜いから、彼は最後までクールで冷静であるかのように描かれる。しかし、ケーニッヒのとっている行動は、最後のフラフラと出で行くシーン以前に、かなり滅茶苦茶なのである。 表情からは推測できないケーニッヒの苦悩と、それに起因する焦り。私は十分描かれていたと思うのだが、その辺をもっと想像するべきであろう。 二人の沈黙の対決が、何時間ぐらい続いていたのかははっきりとはしない。ドイツ軍の主力部隊が迫っているという情報は、ロシア側にも流れていたから、ヴァシリはもう既に撤退したのではないかとケーニッヒが考えた可能性がある。 フラフラと姿を現したケーニッヒは、虚脱した状態である。なせならば、彼はヴァシリを倒し、自分の息子の復讐をすることだけを生きがいとして、気力を振り絞ってきたからである。ヴァシリを逃したと思った瞬間、彼の注意の糸は切れた。あるいは、生きている気力すら切れてしまったのではないか。 大切なのは、ドイツ軍の主力部隊がすぐそこにまで迫りながらも、ヴァシリは決して撤退しようとしなかったということである。ケーニッヒとの戦いに勝っても、ドイツ軍の主力部隊に包囲されるおそれが、時間とともに高まっていった。その中で、ヴァシリが最後まで、ケーニッヒと戦いつづけた理由は、やはりダニロフへの復讐とターニャを失ったことへの精神的衝撃があったからであろう。戦場で彼が心を許した二人の人間、ターニャとダニロフはもうこの世にいないのである。ヴァシリにとって、この戦いをどうしても生きぬかなければならないという理由が消失しているのである。自分の命を大切にして、スターリングラードから撤退するよりも、自分の目の前にいる宿敵ケーニッヒと戦うことが、彼の生きる目標になっているのである。 身を潜めて何時間も息を殺す。これはもはや根比べである。その根比べにヴァシリは勝った。それは、なぜか。それは、ケーニッヒの息子に対する思いよりも、ヴァシリのターニャに対する愛情とダニロフへの友情の方が大きかったからである。 ケーニッヒ対ヴァシリの死闘は、男と男の死闘である。それ以前の二人の戦いは、兵士対兵士の戦いであり、スナイパーとしてどちらが優秀なのかを競う戦いであった。しかしその最後の決戦に関しては、スナイパーの技量などは、全く関係なくなっている。男として、どちらが熱い思いを抱いていたのか、多くのものを背負っていたのか。心と心の戦いのなである。 結果として熱い愛情と友情を持っていたヴァシリが勝つ。彼が戦いに勝つことで、さらに愛情と友情という二つのテーマが、ここで強化される。結果として、ターニャとの再会という奇跡を生むわけである。 ターニャとの再会、それはハリウッド的ご都合主義のように見えるが、ターニャとの愛のために生きる。そういう、生きがいを見出したヴァシリという人間が十分に描かれているからこそ、むしろ必然的ラストとして受容できる。 映像的にもテーマ的にも『スターリングラード』は、壮大なスケールの映画である。 映画はハッピーエンドで終わるが、心を揺さぶる感動でまぶたが熱くなった。 |
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