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『トルーマン・ショウ』 WASPの真実の姿
ジム・キャリー主演の『トルーマン・ショウ』(九八年)は、単なる娯楽映画ではない。そこに隠された寓意を見逃してはならない。 『スネーク・アイズ』 ![]() こんなに伏線を張りまくった映画を見て、誰が面白いと思うだろうか。案の定、『スネーク・アイズ』の評価は、あまり高いものではない。しかし、この伏線の嵐のような映画は、「伏線好き」の私にとっては、垂涎ものである。『スネーク・アイズ』の序盤の全シーン、全カット、全セリフは終盤の謎解(実際にははっきりと謎は解かれないが)のための伏線である。これだけ周到に伏線が張られた作品は少ない。最近では『LAコンフィデンシャル』が超伏線映画として記憶に残っている。『スネーク・アイズ』は、『LAコンフィデンシャル』ほど完成度は高くないし、デ・パルマが監督なのだからもっとクオリティの高い映像を作って欲しいという不満はあるものの、デ・パルマ、ファンの私には十分満足を与えるものである。ちなみに、ブライアン・デ・パルマ監督の『ボディ・ダブル』は、私の生涯ベスト・テン映画の一本に入ります。 |
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赤いルビーをした赤い髪の女。 赤いドレスには、蛇(龍)の柄が。 |
さらに追加しておけば、「女におびき寄せられて、長官のそばをはなれてしまった。」とダンが、リックに告白する。そしてさらに、「女の胸に注意を奪われて、大切なことを忘れてしまった」と続ける。これは明らかに、我々観客に向けられた、デ・パルマからの挑戦状である。「女の胸に注意を奪われて、大切な女の指輪を見落としていませんか」という、観客に対する皮肉である。案の定、彼女の指輪を見落とした人はたくさんいたようです。 「赤い髪の女」とボクサー、タイリーにダウンのタイミングを指示した男は、ダンにあっけなく殺されてしまう。そして、遠くにはミキサー車がくるくると回っている。なぜ、こんなところにミキサー車がいるのかおかしいなあ、と一瞬思ったが、それはラストの赤いルビーへの伏線であり、ここにミキサー車が存在しているのは、このカジノが大改装されるという伏線がはられているので、当然のこととして理解でききる。 「赤い髪の女」は、コンクリート詰にされて、そのルビーの指輪が、壁から、「スネーク・アイズ」のように見えている。「スネーク・アイズ」の意味は「もう終わりだ」、この指輪の先からは死体が発見され、カジノのオーナー、パウエルの運命は終わりなのである。ちなみに、「スネーク・アイズ」が赤いルビーを示すことは、タイトルロゴを見てもわかる。 パウエルの悪事が近い将来ばれることは、他の描写によっても支持されている。それは「赤い髪の女」と一緒に、殺されたイャホーン男である。イヤホーン男は、八百長を引き受けたボクサーのタイリーに、ダウンするタイミングを支持する。その合言葉は、「痛みを知れ !」非常に不自然な言葉である。聞いた瞬間に、うさんくさいとわかる。つまり、何らかの伏線になっていることが、露骨に示される。これは、デ・パルマが、我々に与えたヒントの一つでもある。「痛みを知れ!」誰に対しての言葉なのかを考えろということである。陰謀をたくらみ長官暗殺の黒幕であった軍人ダンは警官に射殺される。八百長に荷担したタイリーも、後半姿が見えずに行方不明になっているので恐らく殺されたのだろう。陰謀を暴露して表彰を受けたリックだが、麻薬と賭博の容疑で起訴される。罪をおかしたものは、罰を受ける。「痛みを知れ!」陰謀の黒幕であるパウエルも、間違いなく痛みを知ることになる。伏線は、それを示しているのだ。 「罪」、これは『スネーク・アイズ』の隠された重要なテーマなのである。実は、私は映画を見る前からそれがわかっていた。というか、予想していた。『スネーク・アイズ』には、何か大きな謎解きがあるらしいとは、見る前に聞いていたが、その謎は「聖書」と関係しているのではないかと、勝手に予想していた。というのは、多くのハリウッド映画が、裏の意味として「聖書」的な解釈を隠していることが多いからである。 「スネーク」「蛇」の聖書的意味は、何か。それは「罪」である。「創世記」のアダムとエヴァのエピソードで、蛇はエヴァに禁断の果実を食べるよう誘惑する。エヴァは神の命令にそむき、禁断の果実を食べてしまう。神にそむいた人間は、原罪を背負うのである。 この映画の舞台となるアトランティック・シティーは劇中で「Sin City(罪の街) 」と呼ばれている。これは、偶然とは考えられない。罪の街を舞台に罪を背負った人間たちが、痛みを知るのが、『スネーク・アイズ』という映画である。「痛みを知れ」という言葉も、おそらく聖書からの引用だろうが、クリスチャンでない私には、具体的に何章何節からの引用かはわからない。 パウエルの悪事が発覚するというのは、他にも伏線がある。カジノの前で再開したリックとジュリア。そこでリックがした話が、灯台の話し。昔、海賊が暗礁に灯台を作って船をおびき寄せて、乗り上げたところを襲ったという。はっきり言って、全く場違いな話しである。なんで、久々にあったジュリアに、教訓めいた話しをしなければならないのか。。明らかに、何かを暗喩している。「ストーリーに関係しています」と。露骨に示されている。このエピソードの後、すぐに映画は終わり、土木作業員が円柱状の石をクレーンで吊り上げる。この円柱状の石、明から灯台を意識している。というか、このカジノのシンボルとして屋根に灯台のモニュメントを載せるのかな、と早とちりしてしまったくらいだ。。すると赤いルビーは、灯台の光を意味することになる。「海賊(=悪人パウエル)は、暗礁(パウエルの隠れ家)に灯台(円中の石)を立てて、人の目を引き付ける」という意味である。人の目を引き付けた結果どうなるかは、誰にも予想がつくだろう。 大どんでん返しを期待していた人には、最後の赤いルビーは、たいしたことのないオチに見えるかもしれない。しかし、このように振り返ってみると、『スネーク・アイズ』は意外性のおもしろさの映画ではなく、必然性の映画といえる。しつことほど、伏線がはられて、証拠とヒントがちらばされているのだから。 私が『スネーク・アイズ』で最も意外だったのは、ハリケーンがどうストーリーにかかわってくるか、という点である。映画のファースト・シーンはケーブル・テレビの女性キャスターが、大雨のカジノの前がら、これからボクシングのタイトル・マッチが行われるというビデオ撮りをしているシーンである。そして、キャスターは天気を「ハリケーン」と言ってしまったため、同じテイクをもう一度撮らされる。明らかに「ハリケーン」が、ストーリー関係してくるという、伏線なのである。案の定、重要な部分で「ハリケーン」は生きてきた。 ダンに追い詰められた、リックとジュリアは、命の危機に瀕する。そこに、パトカーがスリップして、壁を突き破ってくる。突然、警察に包囲されたダンは、反抗すると思われて射殺される。こんなにタイミングが良く、丁度パトカーが、まさにこの場所に突入してくるのはおかしい。全くのご都合主義だ、と感じる人もいたかもしれない。しかし、私はこのシーンで、完全にデ・パルマに負けたと思った。カジノのシンボルの丸い看板は、数回に渡って、映し出されていた。これもまた伏線で、この丸いタマが、ストーリーに絡んでくることは、映画的に見て明らかなのである。つまり、「丸い玉」と「ハリケーン」の伏線が、丁度このクライマックスまでに残されていた。この二つのファクターが映画のマ最後でどう収束するのか、私は全く予想がつかなかった。それが見事に収束するのが、パトカーの突入なのである。つまり、パトカーの突入は偶然ではなく、映画的必然なのである。 伏線がある。その伏線を見て、どう映画が展開していくか、いかに伏線が収束していくのか。それは、映画全般に通じる醍醐味なのだが、普通の映画は、ここまで細かいところまで作られていないのである。そうう意味で、『スネーク・アイズ』は、シナリオのおもしろさを、まさに体現させてくれる作品なのである。 シナリオ的なおもしろは凄く楽しめる一方で、映像的には大いに不満が残る。映画史上最大の長回し。現場の苦労は、相当なものであっただろうが、結局照明の位置などが限定されるせいか、映像のクオリティとして非常に低いシーンになってしまった。私は、この長まわしに全く緊迫感を感じなかった。デ・バルマの本来の味わい、短いカット割を見せて欲しかった。主役のニコラス・ケイジ。個人的にあまり好きではないが、演技的にも一人だけ異常にテンションが高くてういてしまっている。 デ・パルマ・ファンの私としては、『スネーク・アイズ』は完全燃焼できない、物足りない作品になってしまった。 『隣人は静かに笑う』 いきなりラスト・シーンに言及してしまう。このラスト・シーンは意外である。といっても、「全く予想できなかった」という意味で意外というよりも、ハリウッド映画でこれほどアン・ハッピーなラストは少ないという意味での意外さである。 |
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