映画「パッション」の徹底解読
 
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「シカゴ発 映画の精神医学」
 ●第8号●   2004年9月12日発行 
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■ 今週の映画紹介 
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   パッション      2004年5月公開済み 
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 以下、映画のストーリーも書かれていますが、「新約聖書」の映画化ですか
ら、ネタバレだと騒ぐ人もいないでしょう。劇場公開も終了していますし、映画を見
た人にも、見ていない人にも興味深く読めるように書いたつもりなので、みなさん
お読みください。

1 率直な感想

 「手に汗握る」 まさに、この映画のためにあるような言葉だ。
 ファーストシーンから、ラストシーンまで心臓がドキドキ、打ちっぱなしであった。次は一体どうなるのか・・・という緊迫感。
 これほど興奮した映画は、珍しい。
 これこそ、スペクタクルである。

 「パッション」(メル・ギブソン監督)は、日本では2004年5月1日に公開された。私がシカゴに来たのは、4月26日。日本で見られなかったので、アメリカに来てすぐに見ようと思っていたのだが、アメリカでの公開は終わっていた。
 結局先日、8月31日にアメリカでDVDが発売されて、ようやく見ることができた。DVD発売まで紹介を先延ばしにしようと思ったが、今すぐ感動を伝えたいという衝動をおさえきれず、今号で紹介することにした。

2 映像での表現

 映画とは映像で伝えるもの。
 当メルマガでもすでに何度も書いている。

 まさに、「パッション」は映像で伝えている。
 
 例えば、冒頭のゲッセマネの園のシーン。
 イエスは一人で神に祈りをささげる。
 悩み、迷い、恐怖。
 そんな気持ちがよぎるが、それをサタンの言葉を借りて、悪魔の誘惑として映像化している。
 そして蛇を踏み潰す。
 これは、「イエスが誘惑を振り払った」という映像的な表現である。
 
 スローモーションなど最近は流行らないが、「パッション」では冒頭のユダが銀貨を受け取るシーンを初めとして、ここぞという重要な場面に、絶妙のタイミングでスローモーションが入る。
 感情の高まりが、そのまま余韻へと昇華される。

 また、回想シーンの入るタイミングも絶妙。
 「最後の晩餐」「マグタラのマリアとの出会い」のシーンなどが、ここ一番のタイミングで回想として挿入され、映画に奥行きを出している。
 
 一番ビックリしたのは、ラストの神の主観カット(神の視点からのカット)である。イエスが死んだ直後。天上から、処刑場を見下ろす映像。
 大きな雨粒が落ちるのは、神がイエスの死をしっかりと見届けたぞ、というサインであろう。あるいは、神の流した涙なのか?
 こんな映像がありえたのかと、ただただ驚くしかない。
 メル・ギブソンに「やられた」という感じである。 

 映像で伝えるということは、字幕だけ追っていても、内容は理解できないということ。まず、映像を浴びるように感じ取る。
 そして、その意味の深さについて考える。
 それで、初めて「パッション」は、生きた映画になる。

3  アラム語の使用

 「パッション」では、アラム語、ラテン語、ヘブライ語など、当時の人たちが喋っていた言葉が、そのまま使われている。イエスたちはアラム語を喋り、ローマ人同志はラテン語を話している。

 アラム語は、現在は中近東の小数部族の間で話されているに過ぎない。
 観客の99.9%がわからない言葉で映画を作って何の意味があるのか?
 観客にメッセージを伝えるのが映画ではないか?
 これでは、メッセージが伝わらないではないか?
 と、「パッション」を見る前は、考えていた。

 実際に映画を見ると、アッバ(わが父、アラム語)、エロヒム(神、ヘブライ語)、アドナイ(主よ、ヘブライ語)といったように、私でも知っている言葉も出ており、英語字幕の「My God」よりも、これらの原語の方が、はるかに雰囲気を伝えていることは、素人ながらに理解できた。
 イエスが喋った本物の言葉、アラム語だからこそ、伝わるメッセージもある。

 アラム語の使用は、大成功であったと思う。

4  イエスを囲む人々の描写
 
 イエス自身の描写が素晴らしいことはいうまでもないが、イエスを囲む人々の描写が非常に良い。聖母マリア、ユダ、そしてイエスのかわりに十字架をかつぐシモン、マグダラのマリア、ピラトの妻クラウディア、など。
 いままでのイエスの生涯を描いた作品にも、これらの人たちは登場していたが、単なる脇役にすぎなかった。「パッシヨン」では、それぞれの登場シーンは短いにもかかわらず、実に印象深く鮮やかにその人物が描かれている。
 
 特に、聖母マリアには胸を打たれた。
 イエスを見守る聖母マリアの苦悩。
 マリアのセリフは非常に少ないにもかかわらず、彼女の苦悩は、痛いほど理解できる。

 「『パッション』の残虐描写は、見ていられない」
 そう思った人も多いはずだ。

 しかし、単なる映画の観客で非常につらいのなら、実の母の心情は、どれほどの
ものであっただろうか?

 心が張り裂けるほどの辛さ。普通なら見ていられないはずだ。
 しかし、聖母マリアは、イエスを最後まで見届けようとする。
 何という勇気だろう。
 イエスに対する思いの強さが表現される。

 残虐描写に対する批判は多い。
 後日、これに関しては詳しく議論するが、残虐さがあってこそ、初めて見えるものがある。残虐描写がなければ、このマリアの苦悩も、これほどまでに伝わらなかったであろう。

5 聖書的事実と異なるという批判

 映画は全てフィクションである。
 たとえそれが、実在の人物を題材にした映画であろうと、「華氏911」のようなドキュメンタリーであろうと、映画にはその映画作家の、考え、主張が反映される。
 全体の一部分を切り取るのが映画である以上、完全なる客観性など、ありえるはずがない。

 その点において、映画においては真理なり事実というものは、歪められざるをえない。それが映画である。

 逆に、映画作家の考えや主張が、強調される。 
 そして、それを読み解くことが、映画の大きな楽しみとなる。
 
 「パッション」では、イエスが描かれる。
 映画なのだから、事実と異なる部分があって当然のことだろう。

 聖書的事実と異なる。
 歴史的事実と異なる。
 
 こんな批判が山のように出た。
 聖書的事実に100%合致する映画などあるはずがない。 
 それよりも、今までのイエスを描いた映画も同様に聖書的歴史的事実と大きく異なっていたのに、それらの映画公開時には、全くそうした批判がなかったのが不思議だ。(「最後の誘惑」は別)
 何か、「批判しなければ」という気持ちが先にあって、無理に粗探しをしているようにも読める。 

 「パッション」は、メル・ギブソンという一個人の、「イエスの解釈」である。
 だから、それを楽しむべきである。
 そして、そこが興味深いのである。

 「パッション」は、アンナ・カタリナ・エンメリックの幻視をもとにしているという指摘がある。
 日本語訳が読めるので、興味のある人は読んで欲しい。
http://hushiginomedai.hp.infoseek.co.jp/the%20passion%20of%20jesusu%20christ%20index.html 

 ゲッセマネの園のサタンの誘惑と連行場面
 イエスに対する執拗な暴行
 イエスの手に杭をうつ生々しい描写
など、聖書に詳しく描かれていない部分の多くは、エメリックの幻視の会話部分や、その記述を参考に映像化されているのは確かなようだ。
 
 エメリックは、聖人に列せられているものの、単なる病者であるという批判もあって、その「幻視」の信憑性に関しては疑わしい。
 メルはエメリックの影響を強く受けていた。しかし、それは個人の自由である。
 「パッション」では、そうしたエメリックの影響も強く受けた、メルなりの「イエ
スのイメージ」が描かれている、というわけだ。

 「聖書的事実と異なる」という批判が出る一つの責任は、監督のメル・ギブソン自身にもある。
 彼は、「聖書に忠実」と、インタビューで発言しているからだ。
 しかし、これはわざとマスコミの批判をあおろうという確信犯的な戦略だろう。

 確かに大部分は聖書に忠実に描かれているのだが、ディテールに関してはエメリッヒの幻視を採用している部分も多い。聖書に完全に忠実でないことは、監督のメル自身が一番知っているはずだが、彼のこの発言にマスコミの批判が集中した。

 「華氏911」のマイケル・ムーアと同様に、マスコミでバッシングされることで、宣伝効果を得ようという、一つの作戦である。
 したがって、マスコミはまんまと利用されただけである。


 
6 非クリスチャンにとっての「パッション」

 以上、いろいろと「パッション」の魅力について語った。
 しかし、日本人の大半はクリスチャンではないし、聖書の内容についても詳しくは知らない。

 日本人として、非クリスチャンとして、「パッション」をどう受け止めたらいいのか?
 「パッション」は、非クリスチャンにとって意味のない作品なのか?

 クリスチャンとは、イエスを「子なる神」、救世主(キリスト)と信じる人のこと。
 クリスチャンじゃない人は、イエスを普通の人間と考える。

 メルの描きたかったのは、「イエスは本物の救世主である」ということなのだが、クリスチャンではない我々には、当然それは受け入れがたい。
 しかし、イエスの愛と勇気は、本物だと感じなかったか?
 イエスの言葉に、あなたの心は動かなかったか?
 
 クリスチャンであろうとなかろうと、「パッション」を見れば、イエスに対する畏
敬の念を抱かざるを得ないではないか。

 イエスに対する認識、イエスに対するポジティブな感情が、映画の見る前に比べて増えていたとしたら・・・。
 わかりやすくいえば、イエスの好感度がアップしていたらなら、それは映画として非常に意味のあることだろう。

7 聖書を読もう

 聖書というのは、欧米人にとっての常識である。 
 日本人は、キリスト教とは関係がないので、聖書については全く知らなくても良いのだろうか?

 少なくとも、「アメリカ映画を十分に楽しみたい」と思う人にとっては、キリスト教とユダユ教の最低限の知識は知っておいて損はない。
 これらの知識が皆無だとすると、アメリカ映画の半分くらいは十分には理解できない、あるいは表面的な理解でとどまっていることになろう。厄介ないのは、その自分自身の無知に気付かずに、単に「おもしろくない映画」というレッテルを貼ってしまうことだ。

 「パッション」はちっともわからない。おもしろくなかった。

 これで終わらせてしまえば、これから一生の間に、あなたが見る何百本ものアメリカ映画も、同様に「わからない」「おもしろくない」にカテゴリーするだろう。それだけである。

 聖書を読む。かなり大変に思える。
 なにも、全文を読む必要などないのだ。

 この「パッション」で描かれる部分。
 ユダの裏切りからイエス復活まで。
 「マタイによる福音書」であれば、たったの7ページしかない

 たったの、7ページだ。10分あれば読める
 実際、私も映画を見終わった直後に読み返した。

 「パッション」を見たあなたであれば、海綿がワインを吸い込むように、聖書の言葉が、あなたの心に染み込むはずである。
 「パッション」を見ていない人であれば、たった10分予習しただけで、映画を何倍も楽しめるだろう。

 別に、私はキリスト教の伝道師ではない。
 でも、キリスト教が何なのか?
 それがわからないと、欧米人の考え方、そしてキリスト教とともに歩んできた欧米の歴史を理解することはできない。日本人にとって、必要な教養として、イエスはどういう人生を歩んだのかは、知っておく必要があるのではないか?

 崇高な意識を持って聖書を読め、とは言わない。
 ただ聖書を読めば、アメリカ映画が何倍もおもしろくなることだけは、保証する。

7  解説が必要な映画

 映画批評など必要がない。そんな、極論もある。
 しかし、「パッション」を見た多くの日本人は思っただろう。

 「誰か、わかりやすく解説して!!」

 どうして、アメリカではこれが大議論になってるの?
 この映画をどう理解すべきなの?

 非クリスチャンにとって、「パッション」ほど解説なしで理解できない映画はない。
 また、クリスチャンの人であっても、この映画を誤解、曲解している人が多いようだ。

 いずれしても、以下の三点について、きちんと理解する必要がある。
(1)「パッション」の残虐性
(2)「パッション」と反ユダヤ主義
(3)リアリズムとシンボリズム 「パッション」のテーマとは

 今後、「今週の映画分析」でとりあげていくので、お楽しみに。
 以上、私の感想に反対の人も多いだろうが、「映画分析」を全部読むまで、お待ち
いただきたい。

お勧めする人
・聖書はわからないけど興味があるという人
・本物の史劇スペクタルを見たい人
・メル・ギブソンの解釈として割り切って見られる人

見ないほうがいい人
・血を見ただけで具合が悪くなる人
・自分の持つイエスのイメージを変えたくない人
・「映画はフィクションである」ことを理解できない人

樺沢の評価 文句なし★★★★★  (★5個が満点)

 

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「シカゴ発 映画の精神医学」
 ●第10号●   2004年9月26日発行 
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■ 今週の映画解読 
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    パッション         

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第1弾 残虐描写に関する考察

 << (1) 「パッション」は事実以上に残虐な映画か? >> 

 「パッション」は、あまりに残酷すぎる。

 こんな、批判がたくさんあった。
 それには、100%同意する。

 「パッション」は残酷な描写がひどすぎる。たがら、ダメな映画だ。
 これには、100%反対する。

 「パッション」に描かれた残虐性が、聖書に描かれた残虐性と同等であれば、それは聖書を忠実に映画化しただけのこと。
 「聖書に忠実に残虐性を映画化しているので、ダメな映画である」という批判は、成立しない。

 まず、聖書には、イエスがどいう暴行をどの程度受けたのか、それがどう記述されていたかを、知る必要がある。
 聖書の記述と映画の描写を比較して、どうなのかを検討すべきだ。

 イエスが受けた暴行について聖書から、主なもの列挙してみる。

 一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。
 (マルコ14, 64-65)

 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
(マルコ15, 18)

 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
(マタイ27, 30)
 
 ピラトは群集を満足させようと思って、バラバを釈放した。
 そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
(マルコ15, 15)

 これらの聖書の記述から、イエスが鞭打たれ、殴られ、唾をかけられたというのは、聖書的な事実であることがわかる。
 聖書の表現は控えめであるが、「頭をたたき続けた」などの表現から、一、二回殴られただけではすまないことは容易に想像がつくし、目隠しをして「言い当ててみろ」というあたりに、イジメのような極めて悪意を感じる。

 イザヤ書(52:13−14)には、次のように書かれている。
「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。」
 これは、救世主の登場に関する旧約聖書の預言である。
 つまり、これが当てはまるのが救世主であるということだ。
 つまり、イエスが救世主であるためには、「多くのひとが恐れおののくほど、人といえないほどの惨い姿になるほどの激しい暴行を受ける」ということ。

 イエスのまぶたが腫れ上がり、身体には無数の傷。
 ラストの十字架で息絶えたイエスのアップ。
 もはや、人間の面影はない。
「パッション」のイエスの姿は、このイザヤ書の預言に、見事に一致するのだ。

 さて、鞭打ちの道具などが非常に残酷だが、これに関してはどうであろうか?
 当時のローマ帝国の鞭打ち刑について次のような記載がある。

 1メートルから1メートル20センチほどの皮紐に、鉄 や骨、ガラスなどが埋め込んだものを数十本まとめた鞭を使いました。さらに一時は、鞭 の代わりに、鉄棒で囚人を殴ることもあったようです。ユダヤ人の慣習によれば、囚人た ちは、本来40回鞭打たれることになっていますが、そのうち1回は「ユダヤ人の情け」 として免除され、計39回打たれることになっています。この鞭打ちは非常に残酷な刑罰 で、受刑者の背中の皮膚は、ひきさかれ、めくれ上がり、皮下の筋肉や骨まで見えるよう になります。
http://www.jaspella.com/ministry/articles/j-agony.html

 映画の鞭打ちの道具など、この記述にピッタリと当てはまる。
 「パッション」では歴史的な資料も参考に、ローマ帝国が行なっていた鞭打ち刑を、出来る限りリアルに再現した、といえるのではないか。

 鞭うちのシーンで、イエスは何回鞭打たれていたか?
 数えてみた。

 途中、ピラトの妻クラウディアがマリアに布を渡すシーンになるため、正確には数えられないが、60回くらいは鞭打たれている。
 通常の鞭打ち刑39回よりも、多い。
 その点においては、描写が過剰である、というのは当てはまるのかもしれない。
 ただ注意してみると、最初はきちんと数を数えて鞭打っている。
 40回を越えたあたりで、刑吏は「十分だ」と、ローマ兵を制する。
 つまり、ここで公式な鞭打ち刑は終了している。
 その後、さらにローマ兵が鞭を打ち続けるが、それはローマ兵の勝手な判断でやっているだけ。
 ただ、次章で述べる「ローマ兵=悪」を印象付けるために、この勝手な鞭打ちシーンには意味があると考えられる。

 大枠において、イエスが殴られ鞭打たれのは聖書的事実であり、ローマ帝国が行なっていた鞭打ち刑に忠実に描いている、といえるだろう。
 
 ローマ帝国が残虐な鞭打刑を行なった。
 それを、「パッション」では、そのまま映画にした。それだけのことである。
 責めるべきは、イエスに虐待を加えたローマ帝国なのであって、監督のメル・ギブソンではないはずである。

 「華氏911」の中で、手足を失った米兵の無残な姿、爆撃を受けて血管や筋肉が露出した少女のひどい姿が映し出される。
 かなりショッキングな映像である。具合が悪くなった人もいたかもしれない。
 しかし、それは監督のマイケル・ムーアの責任だろうか? そうではないはずだ。
 当然、戦争の責任。戦争を起こしたブッシュの責任であるはずだ。

 一方で、聖書的、歴史的事実と違うと批判され、イエスが受けた虐待に関しては聖書的、歴史的にある程度忠実に、そしてリアルに描いているにもかかわらず、それが批判されるという。
 一体、監督はどういう映画を作ればいいのだ?

 << (2) 残虐描写が必要な理由 >>
 
 残酷すぎるほどのイエスへの暴力が、「パッション」で描かれるのには、重要な理由がある。

 ハリウッド映画の鉄則。ローマ帝国は悪役でなくてはいけない。
 実は<第二弾>で詳述するが、反ユダヤ描写を入れてはいけない、というのもハリウッド映画の鉄則なわけで、「パッション」はその約束事を破棄してしまったわけだから、本当は「ローマ帝国=悪役」の法則に従う必要はない。

 しかしながら、メル・ギブソンはアイリッシュである。
 当メルマガ第3号「キング・アーサー」で書いたように、ケルト人はブリテン島においてローマ帝国の支配を受けていた。 すなわち、ケルト人であるアイリッシュも、ユダヤ人と同様に、ローマ帝国が嫌いなのだ。

 「パッション」では、ローマ帝国の提督ピラト、そしてその妻クラウディアが良い人として登場している。ピラトがイエスに罪を見出せないという姿勢を貫き、自ら裁くことを避け、民衆に判断をゆだねた。
 これは聖書に描かれた事実に準じている。
 
 これだけだと、「ローマ帝国=すばらしい国」という印象を観客に与えてしまう。
 それは、いけない。
 アイリッシュにとって、憎きローマ帝国は悪として描かねばならない。
 「ピラト=良い人」、このバランスをとるためには、「ローマ兵、ローマ帝
国=残忍で極悪」という描写が必要になってくる。

 「戦場のピアニスト」を例に出そう。
 逃亡生活を続けたシュピルマンは、最後にナチス将校に見つかってしまう。
 しかし、そこでピアノを演奏し、将校はシュピルマンを見逃す。
 そのナチス将校は、とっとても良い人だった。
 では、ナチスドイツはとっても良い国なのか? もちろん「ノー」である。
 「戦場のピアニスト」の中盤部では、ユダヤ人を窓から突き落としたり、ユダヤ人の妊婦を射殺したり、ナチスの残虐非道の限りが描かれる。

 残虐だから、これらのシーンはない方が良かったか?
 もし、ナチスがユダヤ人を虐待するシーンがなければ、「ナチス将校は良い人」、転じて「ナチスドイツはとてもいい国」という印象を観客に与えることになる。
 当然、そんな映画が人々に受け入れられないことは、おわかりいただけるだろう。

 全体のバランスをとる、ということが必要なのだ。

 イエスの手に杭を打ち込むシーン。
 このシーンも残虐であると批判が強い。
 しかし、十字架刑はローマ帝国によって、当時、普通に行なわれていた処刑方法である。イエス以外にも、多くの罪人が十字架刑で処刑されていた。
 これは、歴史的な事実である。
 映画では、杭打ちを詳細に再現しているが、これもまた当時行なわれていた、十字架刑の一般的なやり方を、そのまま忠実に映画化したにすぎぎない。

 「十字架刑は最も残酷で最も苦しい処刑方法である」と、いろいろな本に書かれている。
 「でも、十字架刑って、それほど苦しいの?」 
 この映画を見る前は、十字架刑の残虐さについて、私は正しい認識を持てないでいた。多分、今までの映画の影響だろう。

 十字架刑とは、ただ十字架にはりつけにするだけではない。
 手と足に杭をうち、そこに体重をかける。激痛をともなったまま、失血と脱水で、死ぬまで放置するのである。
 「パッション」を見て、これほど残酷な刑はない、と実感した。

 そして、十字架刑を日常的に行なっていたのは、ローマ帝国である。
 当然、ユダヤ最高法院ではない。
 つまり、「ローマ帝国は、極めて残虐な十字架刑を日常的に行なっていた」。
 この映画では、提督ピラトにキリスト殺しの責任はなし、と聖書どおり描かれるが、それは当然「ローマ帝国が良い国である」ということを意味しない。
 「ローマ帝国=絶対悪」の描写として、杭うちの描写も必要である。
 
 もし、この映画から鞭打ちシーンと杭打ちシーンが全くなかったらどうなるか?  間違いなく、「ローマ帝国って、とてもいい国だね」という、おかしな印象を観客に与えることになる。
 そして結果として、ユダヤ人のみが絶対的な悪役として描かれることになる。これは、また別な意味で大きな批判を浴びることになったであろう。

 以上の理由において、ローマ帝国の手による残酷なシーンは、ある程度は必要であったと考えられる。
 
<< (3) イエスの苦痛を通して描かれること >>

 「プライベート・ライアン」の冒頭の30分。ノルマンディー上陸作戦。
 しかし、そこに繰り広げられるのは人間の殺し合いという修羅場。
 内臓が飛び出す兵士。血まみれになりバタバタと倒れていく兵士。
 正気を失い半狂乱になる者。
 殺戮の場。絵に描いたような残虐。

 しかし、「プライベート・ライアン」の冒頭シーンが残虐だから、この映画はダメな映画だ、という批判は聞いたことがない。
 戦争の殺し合いの現場をリアルに描くことで、戦争の残虐性、戦争の無意味さを見事に描き出している。
 映画史に残る名シーンである。
 それが、ほとんどの観客に通じたから、このシーンを批判する人はいないのだろう。

 「パッション」の残虐シーン。
 それは、単なる残虐で終わっているのだろうか?
 もし、そうであれは、ホラー映画と何ら変わらない。

 この残虐シーンによって、何が描かれていたのだろうか?
 そこが、「パッション」の残虐性についての議論において、最も重要である。

 鞭打ちによって血まみれになったイエス。
 そこで、最後の晩餐の回想シーンに入る。それも絶妙のタイミングだ。
 イエスはワインをついで言う。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
「多くの人のために流されるわたしの血」、これが鞭打ちシーンで、その「血」が実際にストレートに映像化されている。
 まさに、タイミングはその瞬間に、「最後の晩餐」へと変わった。

 このイエスの言葉は、こういう意味だったのか。
 血まみれになったイエスの映像があってこそ、このイエスの言葉が、圧倒的な迫力を持って我々に迫ってくるのだ。そして、その言葉の本当の重さを知る。

 イエスの「痛み」が大きければ大きいほど、イエスが引き受けた責任の大きさを、ズシリと感じることができる。
 
 イエスの苦痛を描くことで、彼の言葉の本当の意味、本当の凄さが生の迫力を持って伝わった。これは、まぎれもない事実であり、「痛み」を描くことによってでしか伝わらないものが、この映画では見事に描かれているのである。


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 ●第12号●   2004年10月10日発行  ───────────────────────────────

■ 今週の映画解読 
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    パッション     
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第二弾「パッション」は反ユダヤ主義映画か?
 
「パッション」は、反ユダヤ的であるということで、ユダヤ団体やマスコミからの 攻撃を受けた。  確かに、ユダヤ最高法院の大司祭カヤパ(カイファ)は、イエスを捕らえ、イエスを 処罰することに積極的であった。  しかしながら、それは新約聖書にか書かれていることである。

 祭司長たちや律法学者たちは、なんとかイエスを捕らえて殺そうかと考えていた。 (マルコ14-1)

 イエスが捕らえられ十字架にかけられた<責任の一端>が、カヤパ、最高法院、 律法学者などのユダヤ人にあることは、聖書に書かれている。

 新約聖書に書かれていることをそのまま映画化しただけで、反ユダヤ的と言われて しまうのか?  答は、「イエス (Yes)」である。  それが、ハリウッドである。   

 ハリウッド映画では、「イエスを殺したのはユダヤ人である」と、言ってはいけな いのである。  暗黙の了解。それを破るのは、タブーである。  なぜならハリウッドとは、ユダヤ人の(出資による)、ユダヤ人(監督、プロデュー サー、俳優)による、ユダヤ人のための(テーマの)映画を作るところだから。  さすがに最近では、必ずしもそうでなくなってきている側面もあるが、時代をさか のぼるほどに、この傾向は強く認められる。  

 では、今までイエスの生涯を扱った作品では、イエスを殺した責任は、どのように 描かれているのか?   <<ローマ帝国、そして提督ピラトの責任として描かれている。>>

 ピラトがイエスを殺した。ピラトがイエスを殺したくてしょうがなかった、と。  そして、ユダヤ人の責任は全くないかのような印象を与えるように、周到に作られ ている。イエスの受難を非常に詳しく描いている二本の作品を例に出そう。

 「聖衣」(1953年)  これは、初のシネマスコープ作品(通常の画面より横長のサイズで上映される)であ り、当時450万ドルという巨費を投じて作られた、大スペクタクル映画である。

 イエスを殺した一人のローマ兵ガリオにスポットを当て、ガリオを主人公に映画が 描かれる。ローマからエルサレムに到着したローマ兵ガリオは、エルサレムに入城する イエスの姿を見る。  その時ガリオは、イエスに対して何の感情も持たなかった。  しかしその晩、イエスは逮捕される。  そしてガリオは、提督ピラトよりイエスの処刑を言い渡される。
 その時、イエスは「ピラト提督が逮捕したあの男」と呼ばれ、命令を言い渡された ガリオは「ピラトが処刑を言い渡した。彼は提督だ。彼の命令は、誰にもくつがえせ ない」と言う。  ガリオはピラトの命令に従い、イエスを十字架にかけて殺す。  イエスを殺すまでは何の感情も持たなかったガリオが、イエスを殺してから、罪の 意識にさいなまれ、イエスの信仰に目覚めるのだ。

 映画としては、スケールも大きく感動的。一見の価値はある。  しかし、かなり聖書的な事実とは異なる。   なにしろ、カヤパが全く出てこない。加害者のユダヤ人という視点は皆無である。

 そして、ローマ兵ガリオが、「私がイエスを殺してしまった」という自責の念にさ いなまれる。聖書を知らない人がこれを見れば、「イエスを殺したのはローマ帝国 である」と100%確信するだろう。

「キング・オブ・キングス」(1961年)  これは、2時間45分の大作。イエスの生涯を詳しく描いている。  イエスの生誕、ヨハネによる洗礼、悪魔の誘惑、ペテロ入信、山上の垂訓と、かな り詳しくイエスの重要なエピソードがもらさず描かれている。そして、イエスの入城 と最後の晩餐、そしてゲッセマネの園と、ここまでは全く聖書通りで、描写も細かい。
 しかしイエスが逮捕され、最高法院に連れられカヤパの裁判にかけられるかと思い きや、画面にピラトが現れて、こう言う。  「カヤパは、そなたを冒涜と扇動の罪で有罪とした」  このセリフだけだが、「カヤパに責任あり」という描写は含まれてはいる。  しかし、カヤパによる裁判シーンは、完全に削除されている。

 その一方で、ピラトによるイエスの裁判シーンは、五分以上も続くのである。  ピラトは厳しい口調で、イエスが人々を扇動して、ローマ帝国に謀反を起こそうと したのではないかと詰め寄る。 どうみても、不公平。  そして最終的にピラトは、イエスに何とか謀反を自白させようと、拷問するように 命じるのだ。明らかに、聖書的事実と異なる。  ここで描かれるのは、イエスを有罪にしたくてどうしょうもないピラト。  聖書に書かれたピラトとは、全く異なる。

 さらに「キング・オブ・キングス」には、バラバとイエスと、どちらを釈放 するか、民衆に問うシーンもない。突然、牢に入っているバラバにの前に、 ローマ兵が「お前は釈放された」と宣告するのである。  ピラトが、このバラバとイエスのどちらかを釈放するか、と問うことで、イエスを 何とか助けようとした。その場面がカットされているのだ。
 したがって、ユダヤ民衆が「バラバを釈放せよ」と叫び、「イエスを十字架に かけろ」と叫ぶシーンもない。  つまり、「ユダヤ民衆にもイエスを殺した責任はなし」ということが、聖書的事実 を歪めてまで、周到に描かれている。

 さて、「聖衣」と「キング・オブ・キングス」に共通のテーマ。それは、イエスの生涯を描くこと……ではない。  「ローマ帝国=絶対悪」を描くことである。  丁寧にも、「キング・オブ・キングス」では、ローマ帝国がイスラエルに侵攻し、 ユダヤ人にとって最も神聖な神殿をぶち壊すのがファーストシーンになっている。  

 なぜ、「ローマ帝国=絶対悪」がハリウッドで繰り返し描かれるのか?
 たった、12号のこのメルマガで、すでに何度も登場した話である。 答は、ユダヤ人にとっては、「ナチス=絶対悪」と同様に、「ローマ帝国=絶対悪」 が最も重要なテーマだから。

 イエスの生涯を描いた映画は何本もある。  しかし、それは「ローマ帝国=絶対悪」をテーマとする<ユダヤ人のための映画> であって、<クリスチャンのための映画>ではないのである。

 さて私が、かなり昔の作品、「聖衣」や「キング・オブ・キングス」の詳細な考察 を突然出してきたことに、多くの読者は驚いただろう。  樺沢の守備範囲は、どこまで広いのか・・・と。  
 しかし、種をあかせば、この原稿は六、七年前に書いたものだ。  もちろん、未発表だが。
 当時から、ハリウッド映画では、イエスを殺したのはユダヤ人であることが一切描 かれないことを疑問に思っていたし、不満に思っていた。  しかし、私以外にも、明らかにユダヤ人に都合が良い不公平なイエス映画に疑問を 抱き、不満を持っていた人間がもう一人いた。    
 メル・ギブソンである。

 私は「パッション」を初めて見たとき、メルの気持ちが非常によくわかった。  なぜ、彼が私財をなげうってまで、イエスの映画を作る必要があったのか。  ユダヤ人のための映画ではなく、クリスチャンのためのイエス映画。その必要性。 ハリウッドのキリスト映画の映画史を知らなければ、理解不能である。

 私は、こうしたクリスチャンのためのイエス映画が、いつか作られないかとずっと 待ち続けていた。 あるいは、ハリウッドの現状を考えると、そうした映画を作るこ と自体が不可能だろう、とも思っていた。

 しかし、「パッション」は登場した。奇跡である。  メル・ギブソンが私財をなげうって製作した作品であり、ハリウッドの影響を逃れ ているからだ。    「パッション」は、私がずっと待ち望んでいた作品である。
 10年以上も。  したがって、私は「パッション」を見たとき、涙が出るほどうれしかった。

 さて、このような記事を書くと、私もギブソン同様、反ユダヤ主義思想の持ち主と 誤解されるだろう。
 私は「パッション」に対して、反ユダヤ主義のレッテルを貼る、ユダヤよりのマス コミ、ユダヤ人映画評論家を批判するつもりはない。
 なぜなら、彼らが反ユダヤ主義に神経質にならざるを得ない気持ちを、非常に良く 理解できるから。彼らの気持ちに共感できるから。  

 ナチス・ドイツのユダヤ人迫害。移民としてアメリカに来てからの差別待遇。「赤狩り」。ユダヤ人は、歴史上数えられないほど、痛い目にあっている。  そして、ことあるごとに、反ユダヤ主義が吹き荒れ、住んでいるところを追われ、 殺されてきた。
 その悲惨な歴史は当然知っているし、それに同情もする。
 こうした歴史をもつユダヤ人だからこそ、反ユダヤ主義を早めに封じこめようと、 やや過剰防衛ぎみになるのも、しょうがないのである。
 なにしろ、ナチスのユダヤ人迫害のさい、「ユダヤ人がイエスを殺した」と迫害の 根拠に利用したため、この問題に関してはユダヤ人は最も神経質なのである。

 ユダヤ人のハリウッドが、イエス・キリストを題材にするとき、我田引水的に 「反ローマ帝国」を強調してしまうのも、しょうがない。  「ローマ帝国」と「ナチス」こそが、ユダヤ人を最も迫害し、最も殺した最大最悪 の加害者なのであるから。ユダヤ人にとって、この憎しみは計り知れない。

 「イエスを殺したのは、ローマ帝国ですよ」「ローマ帝国ってひどいんですよ」  ユダヤ人以外のクリスチャンにこれをアピールするのに、キリスト映画は格好の道具 として機能するのだ。

 「パッション」では、ユダヤ人が悪く描かれていると同じくらい、ローマ提督ピラ トが良い人と描かれていることに、ユダヤ人は耐え難い苦痛を感じているに違いない。

 私の書く文章も相当に我田引水的だと思う。  でも文章も、映画も、テレビのニュースも、表現というものはすべてそういうもの。  だから、「ハリウッドでは、しばしばユダヤ寄りの映画が作られますよ」、という 事実を知って映画を見て欲しい、ということ。  「『パッション』のように、そうでない映画は叩かれますよ」ということ。  ただ、それだけである。  当然、ユダヤ人を責めたり批判したりするつもりは、全くない。

 映画の背景を知っていれば、変に誘導されることも、洗脳されることもないだろう。  そして、映画をより深く理解できるし、何倍も楽しめるということである。

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曲目リスト
1.オリーブの園
2.試練に耐えて
3.イエスの捕縛
4.ペテロの否み
5.石を投げる
6.ソング・オブ・コンプレイン
7.シモンの放免
8.むち打ち~闇~弟子たち
9.マリア,イエスのもとへ
10.ピースフル・バット・プリミティブ~十字架の道
11.磔
12.十字架
13.「成し遂げられた」
14.十字架降下
15.復活

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シカゴ発 映画の精神医学
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