インランド・エンパイアの解読 第2章
「インランド・エンパイア」の答えはどこにある?
8月3日の金曜日に、「インランド・エンパイア」を見てきました。
この作品は、アメリカで一度見ているから、今回が2回目になります。
スクリーンが明るくなった後、すかさず観客の顔を観察してしまいます。
「狐につままれたような顔」とは、こんな顔でしょうか・・・(笑)。
しかし、10秒ほどすると、観客の顔は和らぎ、立ち上がり出口に向かいながら、それぞれのパートナーと、映画について、話しはじめます。これこそが、リンチ映画の楽しみであり、魅力ではないでしょうか。
そして、その点において、ほとんどの観客は「インランド・エンパイア」を楽しんでいたように思いました。
「映画について語らせる力がある」、ということは本当に素晴らしいことです。
その映画が観客に何らからのインブレッション(精神的な衝撃)を与え、心を動かしたからこそ、その映画について語りたくなる。
その映画に触発されて、言葉が生まれてくる。
リンチの作品というのは、我々のイメージというか、心というか、右脳というか・・・何か心の奥底に直接ゆさぶりをかけてくる「何か」があります。
その心理的な揺さぶり自体が「快楽」ですから、まるで揺りかごに乗っているかのようにリンチ映画に揺さぶられる。
これが、リンチ映画の楽しみ方ではないでしょうか。
あるいは、ただ映画を見ただけでは、リンチの映画は完結しない。映画を観終わった後の、ジグソーパズルが一片だけ欠けてしまったような居心地の悪さ。
「わかった」とか「わからない」とか、映画のシーンや意味とか理解とか分析とか解読というもの、実はリンチ映画においては、あまり意味を持ちません。
たくさんの言葉が生まれるということは、それだけイマジネーションが刺激されているということに他ならないし、リンチ映画について語ってしまうということは、それだけリンチ映画を楽しんでいるよ、という証拠に他ならないわけですから・・・。
したがって、自分で自分の「インランド・エンパイア」の魅力について大いに語るというのは、非常に素晴らしいことだと思いますが、このメルマガで何度も言っているように、「正しい答」を探して、いろんな人の書いた批評を読みあさったり、読み比べることは全く意味のないことです。
それは、ジグソーパズルの最後の一片を、誰かにはめてもらうということ。
ジグソーパズルの楽しみというのは、最後の一片を自分の手ではめて「やった!! 完成した!!」という達成感を味わうということ。その最大の楽しみを他人にゆだねてしまうということは、実にもったいないことです。
「インランド・エンパイア」の「正しい答」は、どこにあるのでしょうか?
それは、雑誌の記事や映画評論家の批評の中には、ありません。 あなたの外側にはないのです。
「インランド・エンパイア」の「答え」は、あなたの「インランド・エンパイア」にある。
つまり、自分の心に目を向けて、自分の内なる世界を見つめなおした瞬間に、自分にとっても「正しい答」をつかめるのではないか・・・と。
「インランド・エンパイア」の答えは、あなたの「インランド・エンパイア」にあるのです。
この続きは、コチラからお読みください。
この作品は、アメリカで一度見ているから、今回が2回目になります。
スクリーンが明るくなった後、すかさず観客の顔を観察してしまいます。
「狐につままれたような顔」とは、こんな顔でしょうか・・・(笑)。
しかし、10秒ほどすると、観客の顔は和らぎ、立ち上がり出口に向かいながら、それぞれのパートナーと、映画について、話しはじめます。これこそが、リンチ映画の楽しみであり、魅力ではないでしょうか。
そして、その点において、ほとんどの観客は「インランド・エンパイア」を楽しんでいたように思いました。
「映画について語らせる力がある」、ということは本当に素晴らしいことです。
その映画が観客に何らからのインブレッション(精神的な衝撃)を与え、心を動かしたからこそ、その映画について語りたくなる。
その映画に触発されて、言葉が生まれてくる。
リンチの作品というのは、我々のイメージというか、心というか、右脳というか・・・何か心の奥底に直接ゆさぶりをかけてくる「何か」があります。
その心理的な揺さぶり自体が「快楽」ですから、まるで揺りかごに乗っているかのようにリンチ映画に揺さぶられる。
これが、リンチ映画の楽しみ方ではないでしょうか。
あるいは、ただ映画を見ただけでは、リンチの映画は完結しない。映画を観終わった後の、ジグソーパズルが一片だけ欠けてしまったような居心地の悪さ。
「わかった」とか「わからない」とか、映画のシーンや意味とか理解とか分析とか解読というもの、実はリンチ映画においては、あまり意味を持ちません。
たくさんの言葉が生まれるということは、それだけイマジネーションが刺激されているということに他ならないし、リンチ映画について語ってしまうということは、それだけリンチ映画を楽しんでいるよ、という証拠に他ならないわけですから・・・。
したがって、自分で自分の「インランド・エンパイア」の魅力について大いに語るというのは、非常に素晴らしいことだと思いますが、このメルマガで何度も言っているように、「正しい答」を探して、いろんな人の書いた批評を読みあさったり、読み比べることは全く意味のないことです。
それは、ジグソーパズルの最後の一片を、誰かにはめてもらうということ。
ジグソーパズルの楽しみというのは、最後の一片を自分の手ではめて「やった!! 完成した!!」という達成感を味わうということ。その最大の楽しみを他人にゆだねてしまうということは、実にもったいないことです。
「インランド・エンパイア」の「正しい答」は、どこにあるのでしょうか?
それは、雑誌の記事や映画評論家の批評の中には、ありません。 あなたの外側にはないのです。
「インランド・エンパイア」の「答え」は、あなたの「インランド・エンパイア」にある。
つまり、自分の心に目を向けて、自分の内なる世界を見つめなおした瞬間に、自分にとっても「正しい答」をつかめるのではないか・・・と。
「インランド・エンパイア」の答えは、あなたの「インランド・エンパイア」にあるのです。
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