インランド・エンパイアの解読 第3章
「見る」「見られる」の逆転
さて、少しずつ「インランド・エンパイア」の内容に踏み込んでいきます。でも、核心部分についてはまだ触れません。じらします。
何度も言いますから、自分で答えを探してほしいので・・・。
今回は、「インランド・エンパイア」を自分なりに理解するための重要なヒントを差し上げます。
それは、「見る」「見られる」という視点です。
私は、「インランド・エンパイア」2回目を見て、重要な発見をしました。
それは、オープニング部分です。
蓄音器からレトロな音楽が流れる。
そして、「インランド・エンパイア」というタイトルが、少し回転しながら画面に大写しになります。
このタイトルの出方に、大きなヒントが隠されていました。
このタイトルですが、映写機で画面の右側から投影されているようにうつし出されているのです。
映画ですから映写機で投影されるのは当然のことですから、「投影された映画」を「観客が見ている」という当たり前の関係性を映画冒頭で改めて提示したわけです。
みなさん観客は「映画を見ている人」。映画に出てくる人は、「見られている人」ですよ、と。
この関係性が映画を読み解く重要なヒントとなります。
「インランド・エンパイア」の主人公は誰でしょうか?
ハリウッド女優のニッキー・グレース。
あるいは、死んだポーランドの女優ロスト・ガールという見方もできます。
その共通点は、女優であるということ。
女優というのは「見られてなんぼ」の職業です。
人に「見られる」職業である、ということです。
映画の冒頭部。
ロスト・ガールがテレビを見て涙を流しています。
ここで、「見る」「見られる」関係の逆転が生じています。
女優であるロスト・ガールは、本来「見られる」側の人間であるはずが、
ここではテレビを見ている、「見る」側の人間になっています。
なぜでしょうか? という問題提起があります。
その答えは、彼女はすでに「女優」でないから・・・ということになるでしょう(映画を中盤まで見ていかないとわかりません)。
映画の終盤部。「カット」の声がかかり、劇中内映画の撮影が終了します。
劇中の主人公の心理そのままに、混乱したニッキーは、走り出します。
それは、映画のセットなのか?
現実世界なのか?
あるいは、妄想世界なのか?
現実と虚構の境界が不明瞭な世界が描かれます。
ニッキーの「主観」で考えれば、現実と妄想とで混乱していますから「現実か虚構かが判別不能」な世界は、リアルな世界ということが言えます。
そこで、ニッキーは映画館に迷い込みスクリーンを見ます。
そこには、先ほど撮影が完了したばかりの映画の1シーンが映されています。
「見られる」側の存在だったニッキーが、この瞬間に「見る」側の人間に回っています。
これは、ロスト・ガールと同じ側の人間になった、という理解ができます。
ラストシーンのニッキーとロスト・ガールが抱きあうに到る「共感」の理由でもあります。
もう一つ、「インランド・エンパイア」で重要なのは、「誰かに見られている」という感覚です。
ニッキーは、「誰かに見られている」という感覚に支配され、次第にナーバスになっていきます。
これは、精神医学的には、「被注察感」と呼ばれます。
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